自分自身になるために、生まれてきた。

きっと自分は、自分自身になるために、この世に生まれてきた。 生きるとは、自分にとって、自分が自分自身であるということなのだから。 世界でたった一人の、かけがえのない、ありのままの自分であるために。

母の死 1

母が亡くなったのは2004年の1月10日だった。
それから5年以上経つ。

前の年の3月に肝臓の手術をした母は、それから10か月近く生き抜いた。
手術の後、母は3か月入院した。

退院してうちに帰ってからも、母は手術の傷と後遺症のためほとんど寝たきりになった。
そして何度も熱を出したり、足に水が溜まったりして入退院を繰り返した。
それでもたまに体の調子がいい時は、無理に立ち上がって家族のために夕食を作ってくれる時もあった。

秋になった頃、ある朝急に母は父が声を掛けても目を覚まさなくなった。
いくら呼び掛けても意識が戻らない。
すでに会社に行っていたおれは、救急車で母を病院に連れて行ったという父からの連絡で、慌てて車で病院に駈け付けた。
その時は数時間で母の意識は回復した。

医者にこれは肝性脳症というものだと言われた。
肝臓で解毒がうまくいっていないとアンモニアが溜まり、それが脳へ流れ、意識不明になるという説明を受けた。
それと長期的な利尿剤の投与がアンモニア濃度を上げたこともあったのではないだろうか。
そんなことが何回かあった。

母は再び長く入院することになった。
母が病院に入っても相変わらず父もおれも毎日付き添っていた。

父はそのためにずっと前に会社をやめていた。
おれも休みの日は一日中、それ以外の日は会社が終わってから母のもとに通った。
夜も交替で病院に寝泊りすることが多くなった。

母の容態は少しずつ良くなっていった。
医者がもうこれで大丈夫ですよと、太鼓判を押してくれるまでになった。
母の退院は12月31日に決まった。

大晦日のその日、おれは父と兄と車に母を乗せてうちに帰った。
庭には明るい日の光を浴びて、山茶花の花が赤く満開に咲いていた。
その花を目にすると、母はとても喜んだ声で何度も言った。
「こんなに咲いたんだ。とってもきれいだね」

それはまるで母が帰ってくるのを待っていたように、何年かぶりに咲いた花だった。

父からもらった愛 2

母のことを思い出していくうちに、父のことも思い出した。
そうやって自分の心の中を見つめていくうちにいつの間にかおれは、内観をやっている自分に気がついた。

じつは、内観は過去に何度かやろうとした。
しかしその時のおれは父の愛も、母の愛もほとんど感じられなかったどころか、感謝の気持ちもなかなか湧いてこなかった。

トラウマを持っている時、人はその過去の出来事を思い出さなくするか、あるいは感じることをやめてしまう。
感じることは危険だと無意識にそうしてしまう。
そして多くはそのトラウマだけでなく、他の思い出を感じることも止めてしまう。

感じることを始めるためには、トラウマを克服して、もう感じてもいいんだと思わなければ感じられない。

もしかしたら、おれはやっと感じることを自分に許し始めたのかもしれない。

しかし、ここまで来るまでおれは、どこまで長く果てしない道を歩いてきたのだろうか。

父からもらった愛 1

母からもらった愛情を思い出すために、おれは自分の幼い日からのことを順番に思い出していた。
するとそこには母だけでなく、いつも父もいたことに気づいた。
そしていつの間にかおれは、今度は父から受けた愛も思い出していた。

父の愛は幼い頃の自分には全くといっていいほどわからなかった。
その時の父自身も心に葛藤を抱えていて、その愛情はとても不器用なものだったからだ。
でも今のおれには、当時よりはるかに父親の愛情にも気づくことができたことがとても嬉しかった。

父の愛は、家族を経済的にささえていくことだった。
そして妻と子供が飢えないように、路頭に迷わないようにその生活をしっかりと守っていくことだった。

そのために父は朝から晩まで働きずくめだった。
家族のために買った家のローンと妻子を養うために油まみれになって働いていた。

兄とおれを幼稚園からずっと学校に行かせてくれた。
東京でひきこもりでいた時のおれのアパートの家賃をずっと払い続けてくれたのも父だった。

父は幼稚園まで毎朝バイクで送ってくれたり、おもちゃや本を買ってくれた。
おれが野球に興味を持ったのは、父が休みの日になると決まってお寺の境内でキャッチボールをしてくれたからだった。
父の投げた球はとても重かったことを覚えている。

またおれが自転車に乗れるようになったのも、父が近所の高校のグラウンドでずっとつき合ってくれたからだ。

おれが小学校の頃、冬の神社でそりすべりをしたいと言った時、木で手作りで一生懸命に作ってくれた。
それは、他の子供が買ってもらったそりより自分にはずっと誇らしいと思えるものだった。

中学の時の美術の宿題で、おれは何日もかかって彫刻で壁掛けの鏡を作った。
彫刻の板の部分を自分でうっかり割ってしまっておれは泣いた。
翌朝目を覚ますと、それはもう割れたかどうかさえわからないくらいに修復されていた。
母に尋ねると、父が夜中に何時間もかけて貼り合わせてくれていたという。

父はおれが初めて車の免許を取る時も、町外れの河原で車の運転をさせてくれた。
おれがまだ仮免の時一人で無断で父の買った新車を持ち出して猛スピードで橋の欄干にぶつけ、その車を廃車にするほど大破させてしまったことがある。
そのことで警察に交番で朝まで問いつめられた時も随分心配をかけた。
でも父は、自分の車を廃車にしなければならなかったことでおれを責めることはなかった。

そして父は、家族を車で海水浴にも、温泉にも、いろいろな所に連れていってくれた。

長年憎んできてしまった父から自分は、それは不器用であったかもしれないけれど、じつはずっと父親の愛情をもらっていたのだ。

当時のおれは、それを素直にとらえられない自分だった。

でも、いまやっと、その時のことを父に感謝できる気がする。

永遠の愛

おれが母にしてあげられたことは、一体なんだったのだろうか。


母がずっと行きたがっていた中国にも、体がよくなったら一緒に行こうと話していた
北海道にも連れていってあげられなかった。
母が闘病している時たまたまやっていたあるテレビ番組で母が大喜びして見ていた、
兎がたくさんいるという、日本にある小さな島にさえ連れていってあげられなかった。

母はおれが結婚したらその相手と2人で
一緒にあちこち買い物したり、いろいろな所へ行くのが夢だった。
でもその夢はおろか、あんなに子供が好きだった母に
おれは孫を抱かせてあげることもできなかった。

おれが母にしてあげられたことは、
ときどきその固くなった足を揉んであげたことだけだった。

言葉に尽くせないくらいたくさんの愛をもらったのに、
まだ何も返せないうちに母と別れなければならなかった。

苦労した母に、苦しんだ母にもっといろいろなことをしてあげたかった。
もっとやさしい言葉をたくさんかけてあげればよかった。
もっと足を揉んであげればよかった。
痛いところをもっとさすってあげればよかった。
もっと楽をさせてあげたかった。

おれは何て愚かだったのだろう。
失って初めて大切なものに気づくなんて。

でも、今おれはこの母の子供で本当によかったと思った。

いつだっておれはこの母の子供であることに変わりはない。
今までも、そして、これからも。

母と一緒に過ごした時間は、すべて真実だった。

一緒に笑ったこと、一緒に泣いたこと、

楽しいことも、悲しいこともいっぱいあった。

これから先おれはどうなっても、
絶対に母を忘れない。

母からもらった愛を一生胸に刻めるように、
母からもらったこの命を大切に生きる。

思い出は心の中に永遠にきっと残る。

おれの中にも。

母の中にも。

ずっと、ずっと愛されてきた。

たとえばおれが小学校の水泳大会の時25メートルおれが泳がなくても、母はおれを変わらず愛してくれていたはずだ。

おれが目指していた学校に入ろうが入るまいが、どんな成績をとってこようが、どんな会社へ行ったとしても母の愛情には何も変わりはないだろう。

おれが何をやっても、やらなくても母の子供に対する愛情は変わらないだろう。

おれは母からすでに十分愛されていた。
それはもう、おれの一生分でもはるかに余るくらい十分愛してくれていたのではないだろうか。

おれはただおれであるだけで、母に何もかも愛されていた。
おれはただ存在しているだけで、無条件に愛されていた。

だからおれのありのままの自分は、それがどんな自分でも100%始めから母に受け入れられ、認められていた。

おれは母にすべてを認められ、ありのままの自分として何をやってもやらなくても一切関わりなく、無限に愛されていたのだ。

愛に気づく時

おれは思い出していた。
母がおれを、家族をずっと愛してくれていたことを。
母はもうこの上なくいつでもおれたちを愛してくれていた。
そういう母だった。

愛はなかったのではなく、毎日ずっと存在していた。
ずっとずっと愛されていた。
それなのに、おれはずっとそれを感じようとしてこなかった。
何かがおれが母の愛を感じることを止めていた。

その何かについてはまた改めて書きたいけれど、今になっておれはやっと母がずっと長い間与えてくれていた愛情を感じだした。
それはずっともらってきた母の永遠の愛だった。

生まれた時からおれはじつは母の愛情に恵まれていた。
本当に最高の母だった。
それはもう言葉に表わせないくらいありがたいことだった。
そのことにやっと気づいたのだ。

そして母にずっと愛されてきたことを自分の内側で再び一つ一つ思い出していく度に、胸の辺りがどんどんあつくなっていき、涙が溢れそうになっていった。

きっと健全に成長してきた人間なら子供時代にとっくに終えている過程を、おれは今やりだしている。
おれの中の一部はきっとずっと成長してこなかった。
きっとまだ健全に成長してきた人間の5、6歳くらいのレベルかもしれない。
でも、おれは自分の中に成長してこれなかった部分を正直に認め、受け入れようと思う。

自分の中に成長していない部分があるのに、それを認めようとしないでいるうちは絶対に変われないからだ。

愛された記憶 2

おれは幼稚園に通っていた頃、たびたび女の子にいじめられていた。
その度によく泣いていた。
そんなおれを母は心配していた。

小学校低学年の時、おれは体が弱かった。
そのために水泳の時間はプールに入ることもできなかった。
だから上の学年になっておれが水泳大会で25メートルをやっと泳ぎきった時、母はまるで自分のことのように喜んでくれた。
母はおれが大人になってもことあるごとにおれがプールで泳ぎきったその話をいつも嬉しそうにしていた。

おれが神社で自転車で転んだ時に地面に割れたガラス瓶の破片が転がっていて左の膝に七針半を縫う怪我をした時、何キロもある遠い病院まで一人でおれをおぶっていってくれた。

中学に入ってすぐおれが3つの病気を立て続けにして何か月も学校を休んだ時、母は毎日朝から晩までずっと看病してくれた。

運動会にも、参観日にも、PTAにも必ず来てくれた。
幼稚園の時も、高校の時も毎日弁当を作ってくれた。
おれがずっと目指していた進学校の夢をあきらめなければならなかった時も、失恋した時も励ましてくれた。

母は毎日のように神社やお寺にお参りに行った。
いつも何をお参りしているのか、母に尋ねたことがある。

「家族が健康でいつも楽しく幸せに暮らしていくことだよ」
母が答えた。

愛された記憶 1

まだ幼い日のことをおれは思い出し始めていた。

夕暮れ、庭にある柿の木と胡桃の木の間でおれは母におぶってもらっていた。
母は子守唄を歌いながら後ろにそっと手をやっておれの背中を軽く叩き、あやしていた。
その時の母のあたたかなぬくもりに包まれながら、心から安心した気持ちでいた自分を思い出した。

眠る時、母は足先まで布団をかけてくれ、
冷たい空気が入ってこないように肩を出さないようにしてくれた。
そしてそっと頭を撫でながら、おれをやさしく寝かせてくれた。

母はおれをずっと母乳で育てようとしたらしい。
おれは母の乳が腫れるくらい強く吸った時もあったらしい。
母は毎日おしめを取り替えてくれ、顔や体を拭いてくれ、服を着せてくれた。
お風呂に入れてくれ、足指の間や耳の裏まで痛いぐらいに洗ってくれた。

母は毎日朝早くからおれたち家族のために食事を作り、
幼いおれに食べさせてくれ、
そしてみんなの食器を洗い続けてきたのだ。
夜遅くまで家族の服にアイロンをかけたり、
裁縫をしている母の姿が鮮やかに目に焼き付いている。

母は童謡が好きだった。
いつも家事をしながらよく歌っていたその声を、今もはっきりと覚えている。

母 3

あれからもう5年以上経つのに、
おれは今でも母の姿を探している自分に気づく時がある。

雨の日のたくさんの傘の中に。
晴れた日の青い空に浮かぶ雲の上に。
木漏れ日の射し込む林の中に。

駅の雑踏の中に。
同じくらいの年齢の女の人たちの中に。

ときどき今ここに母がいたら自分はどう見えているのか、
どう思っているか考える。

母はいつもほほえんでいる。
いつも明るくやさしいまなざしでおれを見ている。

母 2

母のバッグにはいつも父と、兄と、おれの、家族一人一人の写真が入っていた。
そして母はそれをどこへ行った時も、片時も離すことはなかった。
入院した時も、手術の時も、そして亡くなるまでずっと母の枕元に置いてあった。
「私の御守りなんだ」と、いつも母が言っていた。

母が最期まで持っていた財布は、おれが就職した時の初任給で贈ったものだった。
母はその財布を再びおれが新しいのを贈ってあげるまで、どんなに古くなってもずっと使っていた。

おれが初めて東京で就職した時、母ははるばる故郷から電車を乗り継いで、重い荷物をいくつも持っておれの一人暮らしの部屋に訪ねてきた。
おれがたまに故郷に帰る時は、どんなに夜遅くうちに着いてもたくさんの料理を作って待っていてくれた。
そして東京にまた戻る時は、「また来るから」とおれが言っても、その度にホームでハンカチで涙を拭っていた。

20代の半ばを過ぎた頃、おれが東京での生活を引き払って故郷に帰ろうと思ったのは、故郷に母がいることが一つの大きな理由だった。

母はおれが子供の頃からずっと学校へ行く時も、会社に出掛ける時も、朝必ず玄関から外へ出てきて家族を見送った。

ある時おれはそれをうっとうしいと思って、そのことを母に言ってしまったことがある。
でも母は、「人生は『一期一会』なんだよ。ただ自分が後悔しないようにやってるだけだから」
と言って、相変わらずどんな朝でもにこにこして家族の姿が見えなくなるまで玄関に立っていた。

今でもときどき朝うちを出る時に、雨の日でも雪の日でも毎日玄関に立って、笑って手を振って見送ってくれていた母の姿を思い出す。

その頃おれはどこか心の中でずっと、すべては当たり前にあって、すべては永遠に続いていくのだと思っていた。

でも、母は知っていた。
明日は誰にも約束されてなどいないのだということを。

もしかしたら母は、これが最後になっても決して後悔しないように、自分のありったけの思いを込めて毎日家族を見送っていてくれたのかもしれない。

そして、もしかしたら母は、その人生の中のどの瞬間にもきっと、ずっとそうやって生きてきたのかもしれない。

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