自分自身になるために、生まれてきた。

きっと自分は、自分自身になるために、この世に生まれてきた。 生きるとは、自分にとって、自分が自分自身であるということなのだから。 世界でたった一人の、かけがえのない、ありのままの自分であるために。

2009年10月

愛された記憶 1

まだ幼い日のことをおれは思い出し始めていた。

夕暮れ、庭にある柿の木と胡桃の木の間でおれは母におぶってもらっていた。
母は子守唄を歌いながら後ろにそっと手をやっておれの背中を軽く叩き、あやしていた。
その時の母のあたたかなぬくもりに包まれながら、心から安心した気持ちでいた自分を思い出した。

眠る時、母は足先まで布団をかけてくれ、
冷たい空気が入ってこないように肩を出さないようにしてくれた。
そしてそっと頭を撫でながら、おれをやさしく寝かせてくれた。

母はおれをずっと母乳で育てようとしたらしい。
おれは母の乳が腫れるくらい強く吸った時もあったらしい。
母は毎日おしめを取り替えてくれ、顔や体を拭いてくれ、服を着せてくれた。
お風呂に入れてくれ、足指の間や耳の裏まで痛いぐらいに洗ってくれた。

母は毎日朝早くからおれたち家族のために食事を作り、
幼いおれに食べさせてくれ、
そしてみんなの食器を洗い続けてきたのだ。
夜遅くまで家族の服にアイロンをかけたり、
裁縫をしている母の姿が鮮やかに目に焼き付いている。

母は童謡が好きだった。
いつも家事をしながらよく歌っていたその声を、今もはっきりと覚えている。

母 3

あれからもう5年以上経つのに、
おれは今でも母の姿を探している自分に気づく時がある。

雨の日のたくさんの傘の中に。
晴れた日の青い空に浮かぶ雲の上に。
木漏れ日の射し込む林の中に。

駅の雑踏の中に。
同じくらいの年齢の女の人たちの中に。

ときどき今ここに母がいたら自分はどう見えているのか、
どう思っているか考える。

母はいつもほほえんでいる。
いつも明るくやさしいまなざしでおれを見ている。

母 2

母のバッグにはいつも父と、兄と、おれの、家族一人一人の写真が入っていた。
そして母はそれをどこへ行った時も、片時も離すことはなかった。
入院した時も、手術の時も、そして亡くなるまでずっと母の枕元に置いてあった。
「私の御守りなんだ」と、いつも母が言っていた。

母が最期まで持っていた財布は、おれが就職した時の初任給で贈ったものだった。
母はその財布を再びおれが新しいのを贈ってあげるまで、どんなに古くなってもずっと使っていた。

おれが初めて東京で就職した時、母ははるばる故郷から電車を乗り継いで、重い荷物をいくつも持っておれの一人暮らしの部屋に訪ねてきた。
おれがたまに故郷に帰る時は、どんなに夜遅くうちに着いてもたくさんの料理を作って待っていてくれた。
そして東京にまた戻る時は、「また来るから」とおれが言っても、その度にホームでハンカチで涙を拭っていた。

20代の半ばを過ぎた頃、おれが東京での生活を引き払って故郷に帰ろうと思ったのは、故郷に母がいることが一つの大きな理由だった。

母はおれが子供の頃からずっと学校へ行く時も、会社に出掛ける時も、朝必ず玄関から外へ出てきて家族を見送った。

ある時おれはそれをうっとうしいと思って、そのことを母に言ってしまったことがある。
でも母は、「人生は『一期一会』なんだよ。ただ自分が後悔しないようにやってるだけだから」
と言って、相変わらずどんな朝でもにこにこして家族の姿が見えなくなるまで玄関に立っていた。

今でもときどき朝うちを出る時に、雨の日でも雪の日でも毎日玄関に立って、笑って手を振って見送ってくれていた母の姿を思い出す。

その頃おれはどこか心の中でずっと、すべては当たり前にあって、すべては永遠に続いていくのだと思っていた。

でも、母は知っていた。
明日は誰にも約束されてなどいないのだということを。

もしかしたら母は、これが最後になっても決して後悔しないように、自分のありったけの思いを込めて毎日家族を見送っていてくれたのかもしれない。

そして、もしかしたら母は、その人生の中のどの瞬間にもきっと、ずっとそうやって生きてきたのかもしれない。

母 1

母は手術の後病院に3か月近く入院し、その手術の深い傷や後遺症のために高熱を出したり足に水が溜まってむくんだりを頻繁に繰り返した後退院したが、うちに帰ってきてからも人の手を借りなければなかなか起き上がれない体だった。

それなのに母は人の心配ばかりしていた。
父や、兄や、おれや、兄弟の心配はおろか、枕元に電話を置いて友人の悩みを何時間でも親身になってずっと聞いていてあげるようなひとだった。

母は華道の先生だった。
母が元気な頃一緒に街を歩くと、よく母のお弟子さんのうちの誰かに会った。
その度に立ち話になった。
いつでも嬉しそうに話している母を長い間待つことが多かった。
母はいつも誰といても楽しそうに話をしていた。

何かの集まりがあると、母はいつも自分の手料理や漬け物を必ず持って行った。
また母は老人や足の悪い人を見ると自分がどんなに疲れていてもすぐに、階段でも、横断歩道でも、バスでも一緒に渡ってあげたり、席を譲った。
母は元気な頃、ボランティアで一人暮らしのお年寄りの介護をしていた。

街角で可哀相な人が募金を募っていると、母は必ず募金した。
おれや父が、「そんなに人がよけりゃ、そのうち誰かに騙されちまうよ」といくら言っても聞かなかった。
他人が少しでも困っていそうだったり、気の毒な気がすると何かしないではいられないひとだった。

母は小さい子供が好きでスーパーの中でも、バスの中でも、どこででもよく満面の笑みで話しかけていた。
母はいつもまわりにいる人たちを和やかにしようとしていた。
いつも愛情を持って、やさしく接していた。
母の人生はまるで人のためにあるかのようだった。

母は、花や自然の気持ちがわかるひとでもあった。
家の中や外にいくつも鉢植えの花や植物があり、庭にはたくさんの種類の植物を育てていて、うちの庭はさながら植物園のようだった。
それらを母はまるで自分の子供のように育てていた。
いつも家の花や植物に話しかけていた。
「植物を見るとね、今水がほしいとか、どのくらいほしいとか、今喜んでるのかどうかわかるんだよ」と言っていた。

母は車の助手席に乗ると、街のどこを走っていてもすぐに緑の草や木を見つけた。
「緑をみると、嫌なこと忘れんだよ」と母は言っていた。
辛い時や苦しい時母は植物を見、植物に話しかけていたのかもしれないと思った。

体が動かない時、母は横になったまま空を見ていた。
流れていく白い雲をずっと見つめていた。
母はその時、何を思っていたのだろうか。

その顔は今も忘れない。

母との運命  〜託された命〜

母の人生は家族のため、子供のためにあった。

4時間以上もの大手術が終わってまだ数時間しかたっていないその日の夜、病院のICUで母は鼻と口に酸素吸入のためのマスクをつけて懸命に呼吸していた。
まだ麻酔も切れていない状態だったが、とても苦しそうな顔をしていた。
その目にいっぱい涙を溜めていた。

おれは今でもその時の母の顔を思い出すと、涙が溢れそうになる。
どうして母がこんなに苦しまなければならないのか、と思った。
この手術の前に検査入院した時、カテーテルの管を内腿から体に入れた時とても痛がった。
手術してからずっと入退院を繰り返す度に、その両腕はもう点滴のために針を刺すところがないくらい真っ黒で固くなっていた。
ついには両腕以外のところに針を刺さなければならなくなった。
どうして母はこんなに痛みを味わわなければならないのだろう。

おれはずっと思っていた。
おれさえ生まれてこなければ母もこんな痛い思いをしなくてもすんだのに。
おれさえこの世に生まれてこなければ母は輸血することも、C型肝炎になることも、肝硬変にも、肝臓癌になることも、手術することもなかったのに、と。
でも母は亡くなるまでおれのことを責めることも、おれを産んで後悔したということもたった一度も言ったことはなかった。
そればかりかその手術の日の夜やっと故郷に着いた兄とおれと2人が、絶対安静でベッドに寝かされている母を覗くように立っているのを見つけると、母がおれたちに何か話しかけてきた。
「・・・・・・」
声が小さく、なかなか聞きとれない。
耳を寄せてみる。
「・・・・・・」
聞こえない。
もっともっと耳を寄せた。
母がつけている酸素吸入のマスク越しにやっと母の声がかすかに聞こえてきた。
「た・・・べ・・・た・・・か?・・・」
「食べたか?」と聞いていたのだ。
母は自分が食べられないというのに、子供たちが夕食を食べたかどうかまだ麻酔も切れていない中で気にしていたのだ。

母はよく山鳩の話をした。
山火事が起きてあたり一面が火の海になった時、母親の山鳩は逃げられない子供の鳩をそのお腹の下に入れて守り、自らは焼け死んだという話を。
「鳩の親だってこんなに愛情深いのに、人間で子供を虐待したり殺すような親は動物以下じゃないのかな。動物のほうが偉いね」とよく言っていた。

その時のおれは、その言葉の意味をそんなに重く受けとめていなかった。
でも気づいてみると、おれはいままでずっと母に守られて生きてきた気がする。
おれを産んだ時の輸血がもとで亡くなったということで、母はおれの犠牲になって亡くなったのかもしれないけれど、母が身を捨てておれを何かから守ってくれたような、何かの盾になって死んでいったような、そして最期に母が自分の命をおれに託して逝ったような気がする。

きっと母はどこかで、私はお前の犠牲になったんじゃないよ。そんなこと考えなくていいから、お前はただ自分の幸せのことだけ考えればいいんだよ。
そう笑って、言っている気がする。

母との運命  〜丸い月の記憶〜

母が亡くなった夜、雲のない空には丸い月が輝いていた。

その月は何度も見ていた。
毎日仕事が終わって母のいる病院の行き帰りに渡る、橋の上から。
病室で寝ている母に会って夜遅く車に乗り込む時の、病院の駐車場から。
不思議なことにいつもその度に、空には丸い月が輝いていた記憶しかない。

母が亡くなったのは、肝不全だった。
肝臓癌の手術をしてから10か月もの間、入退院を繰り返した後だった。
おれを産んだ時の輸血がその原因だった。
母はおれを産んだ時、かなり出血をした。
それで輸血が必要になった。
その輸血した血液の中にC型肝炎のウイルスが入っていた。

C型肝炎はいまだ決定的な治療法が見つかっていない。
何十年もかかって肝臓を蝕み、そして高い確率で肝硬変を経て肝臓癌へと進行していく。
肝臓癌は現在も悪性腫瘍による死亡数の第4位にあり、年間3万人を超える人が亡くなっている。

母には本当に数えきれないくらい愛情を受けたと思う。
命がけでおれを産んでくれたこともそうだし、母の人生はいつも子供が中心だった。

母は松代藩の代々の武士の流れを汲む家で、厳格な父親とひたすら忍耐を身上とする母親のもとで産まれた。
すでに2人の子供がいて妻と死別した父親と、連れ子を連れて再婚した母親との間の子供であり、その家族と兄弟をめぐる複雑な人間関係の中で相当苦労したらしい。
15歳でその頃日本が進めていた満州の開拓事業の一員として、引率する教員と一緒に国の政策のために中国に渡ることを自ら志願したのも家のためであり、両親のためだったのだろう。

母が満州に渡った時は太平洋戦争も終わりに近く、日本が無条件降伏する直前に旧ソビエトが満州に侵攻してきた。
すでに関東軍は民間人を残したまま、逃げるように引き揚げた後だった。
だから満州では置き去りにされた民間人が、武器を持ったソビエトと中国に追われた。
母も半年もの間、中国の山河を逃げ回った。
数えきれない屍の中を逃げ続けた。
生き抜くために。

その時の話を聞いたことがある。
ソビエトの機銃掃射を受けた時、無我夢中で走る母のすぐ傍らを走っていた友人が後頭部に機銃の衝撃を受けると、大きく縦に体ごとくるくると回転して倒れていったという。
また地面や河には、人間と馬の死体がごろごろと転がっていたらしい。
そして夜になると、ほうぼうから無数の狼の遠吠えが近づいてくる。
母は昼も夜も生と死の極限状況を生き抜いて、新京まで辿り着き、そして日本に帰ってきた。
その経験も含めて、母はその人生の中で何度も死線を越えてきた。

母が肝臓の癌を摘出する手術の前、ストレッチャーにこれからまさに乗せられる直前、おれの目を真っすぐに見ながら言った。
「人間はね。ただ『生きる』、それしかないんだよ!
頑張るとか、頑張って生きようとか、・・・そんなんじゃない。
人間、最後の最後は、ただ『生きる』しかないんだよ!」
そうおれに言い残して手術室に運ばれていった。

母にとってこのまま生きて戻ってくるかこないかわからない、死も覚悟した人間の、ぎりぎりのところからの本当の言葉だったと、おれは思う。

カテゴリ別アーカイブ
記事検索
タグ絞り込み検索
タグクラウド
QRコード
QRコード
LINE読者登録QRコード
LINE読者登録QRコード
プロフィール

島田 隆

  • ライブドアブログ