自分自身になるために、生まれてきた。

きっと自分は、自分自身になるために、この世に生まれてきた。 生きるとは、自分にとって、自分が自分自身であるということなのだから。 世界でたった一人の、かけがえのない、ありのままの自分であるために。

2009年11月

心の闇

おれが産まれたために母は死んだ。
おれと父は長年に渡りずっといがみ合い、争い続けた。
そしてそのせいでおれと父が愛する母を死に追いやってしまったとしたら、こんな人生に一体何の意味があるのだろう。

何もない。
苦しみしかなかった。
罪しかなかった。
そして他者への憎しみしかなかった。

その時おれはもうこんな人生はこりごりだと思った。
人間なんてもうこりごりだと思った。
死にたかった。
でも死ねなかった。
ここでおれが死ねば、母がおれを何十年も必死で育ててくれたことも、生きていくことをおれに託して亡くなっていった意味も、母自身が生きてきた意味もすべてなくなってしまう。
それだけはできなかった。
だから死ねなかった。

おれは死にたくても死ねない。
だからもう音もなく消えたかった。
跡形もなく消え去りたかった。

自分なんてぶっ壊れろと思った。
自分の人生なんてぶっ壊れてしまえと思った。
そして、そのまま自分のすべてがこの世から、この宇宙から一片も残さずに消え去ることしかもう望みはなかった。
その時のおれは、もしそれで自分がこの世から跡形もなく消えても本望だっただろう。
その時おれは、おれ自身を闇の中へと追い詰めていた。

その頃のおれの記憶には、ただ自分の部屋の白い壁の、その白さだけが強くある。
毎日毎晩ただ白い壁を見ていた。
見ているうちにその真っ白い色の中にただ自分が吸い込まれていく気がした。

わからなかった。
おれがこの世に本当に生きていていいのか。
どうすればいいのか。

すべてのものに何の意味もなかった。
自分にさえも。

自分はきっとその時、虚無というものの真っただ中にいたのだ。

異常な生活

おれは自分もそうだが、父こそが母を追い詰め、殺した張本人だと思っていた。
だからその頃のおれは、憎むべき父と顔を合わせるのが苦痛でたまらなかった。

同じ家の中で父は1階で生活していて、おれの部屋は2階にあった。
居間も、台所も、トイレも、母の仏壇のある部屋も1階だった。

その頃おれは2階の部屋に炊飯器、冷蔵庫、トースター、お湯を沸かすための電動ポットといったものや、包丁、まな板といった調理器具や、食器を揃えた。
そして米や乾物、缶詰などの食料品を用意して、2階の部屋で食事を作り始めた。
父と一切顔を合わせないために食事も生活も別々にした。

物音もなく父がいる気配のない時にトイレに行った。
父が寝た後に風呂に入った。
母の冥福を祈り、お経を唱える時も2階の自分の部屋で唱えることにした。
そんなふうにしておれは父と顔を合わせることを徹底的に避けるようになった。

同じ家に暮らす家族でありながら、1階と2階で全く別々でほとんど顔を合わせることのない生活は、それから2年近くも続いた。

今振り返ると、親子として同じ一つの家にいながら、それはそれぞれが一人きりのとても寂しく悲しい生活だった。
そしてそれはどこまでも孤独で異常な生活だったと思う。

しかしその頃のおれは、父への憎しみと自分への罪悪感の間で引き裂かれそうになっていたのだった。
それは感情に支配されてしまった人間のなれの果ての姿だった。

その頃の自分はきっと壊れていたのだ。

憎しみと罪悪感のはざまで

朝、仕事に出掛ける。
夜家に帰るとすぐに母がいた部屋に直行する。
襖を閉め切って母の仏壇の前に座る。
お経を唱え続ける。

部屋の三方にある襖と障子と真っ白い壁がおれを取り囲んでいる。
自分のお経を唱える声と隣の部屋で時折父が見ているテレビの音が聞こえるだけだった。
たまに父と顔を合わせてももう何の会話もない。
そんな毎日が過ぎていくうちに父と顔を合わせることを次第に避けるようになっていった。

この頃のおれにとって母を亡くした喪失感には凄まじいものがあった。
母は家族のために言葉に尽くせない苦労をしてきた。
手術をしてからのその痛みや辛さは計り知れなかった。
最期には壮絶な苦しみを経て亡くなっていった。
母はおれを産んだ時C型肝炎に感染した。
そして最後にはおれと父が母を追い詰め、死へと追い込んでしまったのかもしれない。
そのすべてのことがその頃のおれに重く重くのしかかっていた。
そしておれは二重、三重に自分自身を苦しめていった。

どこにも救いがなかった。
自分自身がこの先生きていく意味など何も感じられなかった。
その頃のおれは自分が母を死に追いやってしまったのだという罪悪感と、自分と同じように母と家族を長年苦労させ、追い詰めていったと思い込んでいた父に対する憎しみしかなかった。

その頃の自分の心の中では四六時中声が聞こえていた。
おまえがおふくろを追い詰めたんだ。
おまえが産まれてきたからおふくろは死んだ。
おまえさえ産まれてこなければ……。
おまえはおふくろを殺した、殺した、殺した……と。

そして、もう一つの声がした。
おまえの親父がおれたちを追い詰めてきたんだ。
おふくろが亡くなる前におれとのことでおふくろにしつこく絡み続けたあいつがおふくろを追い詰めたんだ。
おまえのおふくろを殺したのはあいつだ、あいつだ、あいつだ……と。

その時のおれにはこの先もう自分が死ぬか、父を殺すしか考えられなくなっていた。
でも自分が死ぬことはどうしてもできなかった。
自ら死を選ぶことはできなかった。
ここでおれが死ねば母が命がけでおれを産んでくれたことも、あらゆる苦労をして一生懸命おれを育ててくれたことも、母のすべてもそれこそ否定することになるからだった。
母のやってきたことのすべてを、そして母の人生そのものを全く意味のないものにしてしまうからだった。
そして母は絶対にそんなことは望んでいるはずもなかった。

父を殺したいと思うこともしょっちゅうあった。
でもそれも決して母が望まないことだった。

おれはますます自分自身に追い詰められていった。

母が亡くなった理由

大きな手術を乗り越え、長い闘病と度重なる入退院を繰り返してきた母は、最後に退院してから10日後に亡くなった。

医者からもうこれで大丈夫ですと太鼓判まで押されていたのにもかかわらず母が突然亡くなっていった過去を、おれはそれから何年もずっと引きずって生きてきた。
それは母を死まで追い詰めてしまったのは実は自分と父なのではないかという罪悪感が、日夜心の中でおれを責め続けていたからだった。

母がうちに帰ってきてから間もなくのことだった。
大晦日に退院した母はまだ寝たきりの体で、手助けしてあげないとほとんど起き上がることができないでいた。

新しい年が明けてまだ数日しかたっていなかった。
世間は正月だった。
その頃母はもちろん、おれも父もその介護のためにかなりの肉体的・精神的疲労がたまっていた。
おれたち家族は一人一人みんな心底疲れきっていた。

そしてあの日、疲れは人間を壊していくということをおれは知ることになった。
すべてはおれの一言から始まったのだ。

その時おれはベッドで寝たままの母に食事を食べさせてあげたり、水を飲ませてあげていた。
それから母の体を拭いて着替えを手伝った。

父は居間で兄と酒を飲んでいた。
それを見たおれはその時、そのことがどうしても許せない気持ちになった。
母の体の向きを変える時におれは手伝ってくれるよう二人を呼んだ。

父が来た。
おれが母の上半身を抱きかかえ、父が母の足を持った。
その時おれは父にあれこれと指示した。
確かこれ以上ないくらいきつい命令口調だったと思う。

少し酔っぱらっていた父は、お前の言い方は何だとかあれこれ言い出した。
そしておれと父は母の前でつまらない言い争いを始めた。

激昂した父はいきなり台所へ飛んでいき、包丁を取り出そうとした。
お前を殺してやると、叫びながら。
おれはそれを止めようとして父と揉み合いになった。
おれは母のいる隣の部屋で父の上に馬乗りになった。
父の体を両腕で力一杯押さえつけた。

父は動けない体勢でもまだおれを罵っていた。
それでもおれはありったけの力で押さえつけていた両腕をずっと緩めなかった。
その時おれと父とのその争いを隣の部屋で母が聞いていた。

おれがやっと父を解放すると、父はどこかへふらりと出て行った。
そして何時間か後に帰ってくると、父はこう言い出した。
今おれは不動産屋に行ってきたから、このうちを売ってこれからは母と二人だけで施設に住むと。

その頃の母は決して施設には入りたくはなかったのだと、おれは思っている。
母はずっと自分の気に入っているこのうちで暮らしたかったのだ。
しかし当時の父のしつこく相手に絡み付く性格からすると、もしかしたらそれからおれがいない時には毎日のようにあいつはどうでもいいからこのうちを売って二人だけで施設に移ろうと、母に絡んでいた気がする。

その争いから2、3日経った頃、母が体のあちこちに痛みを訴えだした。
そして数日後に母は苦しんで亡くなっていった。
母が急に体の痛みを訴えだしてその何日か後に亡くなった理由として考えられることは、この時の争いのせいとしかおれには思えなかった。

その時のおれと父との争いが母を追い詰めてしまったのかもしれなかった。
おれの父への一言から始まった二人の争いこそが、結果的に母を殺してしまったのかもしれなかった。
もしかしたらおれがその引き金を引いて、父が希望を打ち砕いてしまったのかもしれないと思った。

母はおれと父との長年の確執をずっと心配していた。
しかしこの時母はもうおれと父とのことをすっかり諦めてしまったのかもしれない。
いつまでも和解できない、変わっていかない二人のせいで生きる希望をなくしてしまったのかもしれない。
もしそうなら、おれと父こそ母の殺人者だった。

家の中がおれと父の二人だけになると、おれの父への新たな憎しみと母が亡くなったことに対する罪悪感に心が次第に苛まれていった。

介護の日々 3  〜母からの最後の贈り物〜

あの頃辛い手術を終えた母は、熱を出したり、足やお腹や全身に水が溜まったりしてとても動けるような体ではなかった。

だから水を飲ませたり、食べさせたり、着替えさせたり、体を拭いたり、おむつを替えたり、痛いところを擦ったり、痒いところを掻いてあげたり、手や足を揉んだり、そして入浴させたり、母の服や下着を洗濯したりした。
そして話を聞いてあげたり、冗談や楽しい話を一生懸命したりもした。

最近気づいたことがある。
それはじつはそのまま自分が産まれた時から子供時代母にずっとしてもらっていたことだったのだと。

誰かを愛するとはまさしく行動することであり、実践することだったのだ。
母はずっとおれや兄が子供の頃から嫌な顔一つせずに身の回りの世話をしてくれていた。
母はまさしくずっと長い間、おれや兄や父を、家族を愛してくれていたのだ。

おれはずっと自分の過去を振り返ってきた。
そして母が自分にどれだけのことをしてきてくれたのかを少しずつ思い出すことができた。
すると自分がずっと忘れていた、母に自分がいかに無条件に愛されてきたのかということにようやく気がつくことができるようになった。
そしてその揺るぎのない事実は、きっとこれからのおれの生きていく強い力になっていくのだろう。

そして今、おれはおれ自身も過去にたった10か月という母に比べたらあまりにも短い期間だったかもしれないけれど、母に精一杯尽くしてきた事実を思い出した。

それはもしかしたら母の愛情に比べたら、完璧とは言えない、あまりにもお粗末で、雑な行動だったかもしれない。
もう少しやってあげられることもたくさんあったかもしれないし、疲れて内心嫌になったことも正直あった。

でもそんな後悔することも、反省することも、もっとやれることがあったかもしれないと思うことも、疲れていてももっと心を込めてしてあげたほうが良かったと思うこともすべて含めてその頃のおれは精一杯生きていたと思う。

母のことを一途に思い、母を楽にしてあげたいという一心で母の介護を続けた。
それこそ母に与えてもらった、人を愛するというとても貴重な経験だったのかもしれないと今になって思う。

ありのままの自分として母から愛されたという経験はおれにとって生きる上でとてつもなく大きな力を与えてくれることであるとともに、それがどんなかたちであれ人を愛したという経験もおれが生きていく上でまた強い力と自信を与えてくれるのではないだろうか。
そして母はその人生の最後に自分を通しておれに人を愛するというかけがえのない大切な大切な経験をさせてくれたのではないだろうか。

おれは今まで母に何もしてあげられなかったと思っていた。
でも、おれもその時じつは精一杯いろいろなことを母にさせていただいていたことに気づいた。
それは「してあげた」のではなく、まさに「させていただいた」という言葉のほうがぴったりする。

そう、おれはあの時母を精一杯愛したのだ。
おれも過去に人を精一杯、一生懸命愛してきたのだ。

おれは母が生きている間数え切れない愛情という贈り物をずっともらってきた。
そして母からの最後の贈り物は、まさしく人を愛するという経験と、自分も人を愛せるのだという自信そのものだった。

そのことに気づいた時、おれは母からの命をかけた、この上なくあたたかい心のこもった最後の贈り物を自分がずっと受け取っていたことにやっと気づいた。

おふくろ、ありがとう。
あなたはおれにとって本当に最高の母親でした。
あなたが自分の体と命と引き換えにしておれに贈ってくれた最後の贈り物、今しっかりと受け取ったよ。
おふくろ、本当にありがとな。

介護の日々 2

ニュースでしばしば長年の介護の疲れから起きた心中や殺人といった事件が報道される。

それはとても残念なことだけれど、おれ自身経験が全くないというより10か月介護を続けてきた者として、そういう人たちの蓄積していく疲れというものが少しはわかる気がする。

介護をしている時は、自分の時間などほとんどないと言っていい。
その頃の父とおれの体には、正直言って何か月もの介護による疲れがたまっていた。

それでも自分の母だった。
おれを命がけで産んでくれ、限りない愛情でおれと兄を育ててくれて、家族のために一生懸命尽くしてきてくれた母だった。
それにもとはといえば、おれを産んだ時の輸血がもとで母はここまで苦しんできたのだ。

だから自分のためではなく母のために生きようと、あるいは母の身の回りをすることこそ自分のためなのだとおれはそう自分に言い聞かせながら、疲れた自分の体に鞭打ちながら母のために介護を続けた。

介護はおれにとって自分との戦いだった。
たまっていく体の疲れと、睡眠不足との。

あの頃のおれと父の体は正直言ってへとへとだったと思う。
辛いことも、せつないこともあの頃は何度も経験した。

今思うと、何かに試されていた気がする。
そしてその頃のおれはその見えざる何かと必死で戦っていた気がする。

そしてその時の母もまた、おれたち以上に必死で戦っていたのだ。

母が亡くなって2年近くたって長野のうちを父と後にする時まで、母のために用意した大量の新しい紙おむつをずっと捨てられずにいた。
母の服も、下着も、ところどころに固く茶色に変色した血がこびり付いていた毛布もずっと捨てられなかった。

それは、おれにとってあの頃の母がただひたすら生きるために戦ってきたかけがえのない証しだったからだ。

介護の日々 1

母が手術をしてから亡くなるまでの10か月、介護の日々を過ごした。

母がうちで寝ている時も、入院している時も介護をしていたのは叔母と、父と、おれの3人だった。
兄弟の中ではたった一人の妹である叔母を母はとても頼りにしていた。

叔母はよくうちに来て、何日も泊まっていってくれた。
母の心の支えになってくれ、身の回りのことをほとんどやってくれた。
父もおれも叔母には本当に助けられたと思う。

ただ叔母にも家庭がありなかなか来られない日が多くなると、母の世話のすべてを父とおれがやるようになった。

着替えも、体を拭くことも、水を飲ませてあげることも、食べさせてあげることも、おむつを替えることも、床擦れにならないように体の向きを頻繁に変えることも、むくんだ両足と手をしょっちゅう揉んであげることも、痛いところを擦ってあげることも、痒いところを掻いてあげることも、食事を作ることも、入浴も、洗濯も、必要なものを買い出しに行くことも、話し相手になることも……。
そして母がうちにいる時も、病院にいる時も隣で寝たり、泊まったりすることも多くなった。

おれは会社に勤めていたので休日は1日だったが、平日は朝と夜に母の介護をした。

母が入院している時、仕事が終わってから毎日のように病院に通った時のことを今でもたびたび思い出す。

母はおれがどんなに夜遅く部屋を訪ねていっても、いつも待っていてくれた。
わずかな灯りのともるだけの病室におれがそっと入っていくと、母はどんなに寝ていてもすぐに起きてきた。
1日の仕事が終わってからやってくるおれのために、母は自分があまり食べられなかったと言って夕食やヨーグルトなどをそっくり残していた。

母のところに行くたびにおれは横になっている母のむくんでいる両足の腿から足の先まで揉んであげた。
それは大抵いつも水が溜まりぱんぱんに張っていて、いつも母は辛そうだった。
それはとても固くなっていて強い力で時間をかけてずっともみほぐし続けなければ、なかなか元のように柔らかく血色のいい状態にはならなかった。

「ありがとな…ありがとな…」
母は遠慮しながら何度も何度も繰り返しおれに言った。

病院の中はすっかり寝静まっていて、廊下もどこもほとんど何の物音もしなかった。
夜の静まり返った空間の中に、母とおれだけがいた。

「もういいよ。お前も仕事で疲れてるんだから、早く帰って寝な」
母がおれを気づかって言う。

おれは母に水を飲ませ、おむつを替え、着替えを手伝った。
それから新しい着替えを置いて、母が今まで着ていたパジャマや下着を手提げ袋の中に入れた。
そして隙間のないように毛布と掛け布団を母にかけた。

ベッドの中で精一杯微笑んで見送ってくれる母の顔は、いつもどこか淋しそうな気がした。
おれは母の顔を見ただけでその日の嫌なことも全部忘れられた。
1日の疲れがとれる気がした。

「明日また来るよ」
おれはいつも明るく笑いかけながら病室の扉を閉めた。

誘導灯しか点いていない薄暗い夜の廊下をとぼとぼと一人歩いて帰っていく時、おれは決まって泣きたい気持ちになった。

もう夜中近くになろうとしている病院から一人きりで車を運転しながらうちに帰る時、おれは心の中でいつも問いかけた。

どうして母のような人がこういう運命を生きなければならないのだろう、
神様はなぜ母を選んだのだろう、と。
でもいつも答えはわからなかった。

その答えは今もわからない。

母の死 10

おれが今住んでいる自宅のベランダには、鉢に植えられたくちなしがある。
毎年のように白い花を咲かせ、甘い香りを放っている。

それはもとはというと、母が昔、近所の家から枝を一本だけ譲ってもらってきたものだった。
母はそれを挿し木から自宅の庭で丹精を尽くして育て上げ、増やした。
おれはその何本もの中から一本を植木鉢に移し替えて、引っ越しの度にそれだけは大事に持ってきた。

近所のうちというのは、高校で園芸科を教えていた先生のうちだった。
その先生は母に、「くちなしの木は挿し木から育てるのは無理ですよ」と、言ったそうだ。
それでも母は、そのくちなしの挿し木をさらに根が張りにくく育ちにくいと言われている真冬の2月に庭に植えて、育て上げたのだ。

おれは父と長野のうちをあとにする時、母の思い出のそのくちなしを植木鉢に植え替えて埼玉へと持ってきた。
母の形見だった。
今は東京の自宅のベランダにある。

おれはそのくちなしの白い花が咲く時、陽の光を浴びるその緑の葉に触れる時、その甘い香りを嗅ぐ時、決まって母のことを思い出す。
そしてその度にそれは、ありのままの自分としてかつて自分が産まれた時から何十年も母にずっとずっと愛されてきた紛れもない事実を、いつでもおれに思い出させてくれる。

5年という歳月を経て、おれは今やっと過去のことを振り返れるようになった。
おれは母のこと、父のこと、家族のこと、そして過去の自分自身のことをできる限り克明に思い出そうとした。
そしてその過程で、過去は自分を辛く傷つけてきたかもしれないけれど、じつは今の自分自身を癒してくれる大きな力もその中に眠っていることを知った。

あの日から歩き続け、癒され、変わり続けてきた今のおれにとって自分自身を癒すということは、過去の自分を癒すことに他ならなかった。
そして過去の自分を癒すには、自分の過去と向き合わなければならなかった。

おれは今までどこかでずっと辛かった過去から逃げていた。
でも過去から逃げている限り、辛い過去は追いかけてきた。
今の自分は過去の自分を忘れても、過去の自分は今の自分が訪れてくれるのをいつまでも待っている。

今おれは辛い過去から、悲しい思い出から目をそらさないでいられるようになった。
今の自分が幸せになるにしたがって、どんな辛く苦しい過去であっても、そんな過去のすべてをまるごと今の自分が受け入れてあげられるようになる。
それが過去の自分を癒し、自分自身を癒すことになるのだとおれは思う。

ときどき今もしここに母がいたらどうしているだろうかとか、もし母が肝臓癌にならなかったらどんな人生を送っているだろうと考える時がある。
でもこれがおれと、母と、家族の運命だったのだ。

今、目を閉じると、辛いことや悲しいことだけでなく、楽しかった時、幸せだった時の母のこともはっきりと思い出すことができる。
一度亡くなった母が今自分の心の中で再び生き始め、息づき始めている気がする。

そしていつも月を見る度に、空を見る度に、くちなしの花を見る度に、風にそよぐ緑を見る度に、朝の光を浴びる度に、幼い子供たちの顔に笑顔が浮かんでいるのを見る度に、そして母と同じくらいの女の人たちを目にする度にそれは母に確かに愛された、揺るぎない記憶となって、いつでもどこでもおれを大きくやさしく包み込み、生きていく力となっておれを強く導いていてくれることを、今おれは知っている。

おれは母を失ったのではなかった。
おれは何一つ母を失ってはいなかったのだ。

おれの中でいつでも母は存在している。
そしておれのまわりの世界にも母はかたちを変えて、いつでもどこでもそこかしこに存在しているのだ。

母の死 9

母の葬儀にはたくさんの人たちが集まった。

母の昔からの友人の一人がスピーチをした。
「さだちゃんが亡くなって、私は悔しいです」と、言った。
突然の訃報に母と親しかった人たちは、きっとみんな同じ気持ちだったのだと思う。

たくさんの花に囲まれた祭壇の上の写真の母は、やさしそうに微笑んでいた。
母はどんな時も決して微笑みを忘れなかった。
母はいつも人のことばかり考えていた。
母はどこにいてもいつも明るく、その場を和やかにしようとしていた。

母はただそこにいるだけで、そこにいる人をやさしく穏やかに包み込むような雰囲気があった。
だから、おれのうちはいつも母がいるのと、いないのとでは全く違った。

母はまるで花のような人だった。
おれは母のためにお焼香をしてくれている参拝者の方々にその都度礼を返す時以外は、ずっと泣いていた。

母が昔、おれに言ったことがあった。
「お前とは言葉にできない何か深い運命みたいなものを感じるよ」
その通りだった。
母を亡くすことが自分にとってこんなに辛いことだとは思わなかった。
母はまだずっとこの先何年も生きるのだと思っていた。
思いがけないこのようなかたちで最愛の母と別れなければならなくなるとは全く考えもしなかった。

葬儀が終わり、親戚も帰り、最後に何日かいた兄が帰ると、家は父とおれだけになった。
家の中はがらんとしていた。
すべてが静まり返っていた。
当たり前のことだったが、どこにも母の姿がなかった。
母の声が聞こえなかった。
二人で住むには、今ではこの家は広すぎた。

四十九日が過ぎて、母がずっと寝ていた畳の部屋に父と兄と三人で選んで買った、母のための仏壇を置いた。
そしてその仏壇の上に母の写真を飾った。
母の好きだった花を供え、毎日母の前の水を取り替え、線香を焚いた。

おれは母の位牌と写真に向かってくる日もくる日も朝と夜、声を上げてずっとお経を唱え続けた。
夜、正座したまま気がつくと、三時間も四時間もたっていた。
足が痺れていることも忘れてずっと座っていたのだ。

おれは母のために毎日たくさんのお経をあげ続けた。
 ー母のこれから行く旅路が決して寂しくないように
  たった一人で道に迷わないように
  目に見えない、もし母を加護してくれる力があるのなら、どうか
  母を守ってください。ー
おれがもう母にしてあげられることは、母の冥福を祈ることしかなかった。

肩や足を揉んであげることも、痛いところをさすってあげることも、痒いところを掻いてあげることもできなかった。
話をすることも、話を聞いてあげることも、聞いてもらうこともできなかった。
笑い合うことも、一緒に泣くことも、冗談を言うことすらできなかった。

祈ることしかなかった。
母の冥福を祈る以外、他に何もできることはなかった。

その時おれには何の望みもなくなってしまった。
生きていく希望を失ってしまった。

その時のおれには、人生にはもう何も残っていない気がした。

母の死 8

母を火葬場に連れて行く時、おれが望んだたった一つのことは、
少し回り道になっても母が生前ずっと好きだった並木道を通っていくことだった。

家の近所に、両側に青々とした大きな木々が何本も植えてある広い並木道があった。
母はその道がとても好きだった。
「この道は広々として、とても気持ちがいいね」
よく母が言っていた。
だからおれは母を車に乗せて買い物に行く時も、美容院に送っていく時も、
お花を教えにいく母を乗せる時も、そして病院に行く時も必ずといっていいほど母と一緒の時はその道を通った。

だからこそ、最後に母が通る道もその道にしてほしいとおれは葬儀屋に頼んだ。

棺に乗った母が霊柩車で静かに家を出ると、近所の人たちが黙ったまま
それぞれの家の前に立って深々と頭を下げて、母を見送ってくれているのが見えた。

霊柩車に乗った母と一緒に並木道に差し掛かると、
その道は広く一直線に空まで伸び、その先はまるで青い空に繋がっているように見えた。

そしてたくさんの思い出を踏みしめるように、ゆっくりとその道を車は進んでいった。

市街を一望する小高い山の中腹に、これから母の亡骸を焼く火葬場があった。
母を乗せた車は、「七曲がり」と呼ばれている少し急な坂を幾度となく左右に大きく曲がりながら登っていく。
標高が高くなるにつれ、坂の途中からしだいに雪が舞い始めた。
火葬場に到着すると辺りはもう一面白くなっていて、空がぼんやりと霞むくらい雪が降ってきているところだった。

母との最後のお別れだった。
母の顔を見るのもこれで最後だった。
棺はおもに顔のところだけ見えるようになっていた。
母は棺の中で、うちを出る時に多くの人によって入れられたたくさんの花に包まれていた。
おれは母がかわいいといつも言っていたぬいぐるみも入れた。

母の顔は最後までやさしかった。
おれは心の中で母に語りかけた。
「おふくろ、よく頑張ったな。
あんなに痛かったのに、あんなに苦しかったのに最後まで生きること、あきらめなかったな。
ごめんな。
こんな息子でごめんな。
最後まで何の親孝行もできなくて本当にごめんな。
でもおれはおふくろのこと、絶対に忘れないから。
あなたに産んでもらったこと、
あなたに育ててもらったこと、
あなたに愛してもらったこと、
おれは絶対に、絶対に忘れないから。
おふくろ、ありがとな。
もうゆっくりと休んで。
おれはおふくろのこと、愛してるから。
ずっと思っているから。
ゆっくりと休んで」
母の棺が火葬炉の中へと入れられ扉が閉まった時、
おれは今まで自分の心の中にずっとあった一番大切なものを失ったと思った。

あんなにやさしかった母が、自分がずっと愛していた母の体が燃やされ灰になっていくことがとても耐えられない思いだった。

母が灰になるまでの間、みんなが時間を過ごしている待合室から一人抜け出した。
おれは高い煙突から白い煙となって立ち上っていく母をじっと見ていた。

雪は止んでいた。

空は晴れていた。

白い煙は青く澄み渡った高い空へとどこまでもどこまでも上っていき、
広がって、やがて見えなくなった。

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