自分自身になるために、生まれてきた。

きっと自分は、自分自身になるために、この世に生まれてきた。 生きるとは、自分にとって、自分が自分自身であるということなのだから。 世界でたった一人の、かけがえのない、ありのままの自分であるために。

2009年11月

母の死 7

1月の寒い夜だった。
凍て付くような信州の冬の季節だった。
部屋の暖房をつけたまま、おれは母の眠っている部屋のすぐ隣にある居間の炬燵で横になった。

何も考えられなかった。
母が突然逝ってしまったことが、まだとても受け入れられなかった。
おれは母が亡くなったことをまだ認められずにいた。
母が亡くなったと医者に言われても、母の亡骸を見てもその時おれはどうしても母が死んだということを信じたくはなかったのだ。

おれはいつの間にか寝ていた。
突然誰かの叫ぶ声と、何かがぶつかるような音で目が覚めた。
それは母が眠っている部屋からだった。

横になったままそっと目を開けると、父が眠ったままの母の傍らで一人泣いていた。
そして母の体に触れながら叫んでいた。
「冷たいじゃないか!誰がこんなこと、したんだ!」
父はそう叫んで、母の浴衣に葬儀屋が詰めたドライアイスを一つ一つ取り出しては台所の流しに持っていき、投げ捨てていた。
一緒に炬燵で寝ていた叔母がそれを見て泣いていた。

母の亡くなった時間のことをふと思った。
医師が部屋に来て母の死亡を確認したのは10時40分だった。
でもナースステーションから電話が入ったのは29分だった。
死というものが魂が肉体から離れた時刻をいうのなら、きっとナースステーションからの電話があった時間ということになる。
昨夜、父と兄と話した。
その時間は、父も兄も病院のすぐ近くで遅い夕食をとってちょうどその店を出て、母の部屋に帰ってくる直前だったらしい。
おれも駐車場に車を入れようとしていた頃だった。

母の死亡時刻をもしそう捉えるならきっと母は本当は、おれも、父も、兄も部屋に戻ろうとする数分前に逝ったのかもしれない。
人の心配はするけれど、いつも家族に心配をかけないように生きてきた母は、もしかしたらまだ家族が誰も部屋に戻ってはいないその時刻を選んだのかもしれないと、おれは思った。

おれは、早朝に目を覚ました。
窓を開けた。
青く晴れ上がった空に山際からちょうど太陽が輝きを増しながら昇ってくるところだった。

その光は一瞬強く輝いたかと思うと、あたり一面を眩しく照らし出し、目も眩むようだった。
人間が魂だけになって行くその世界も、もしかしたらこれとよく似た風景なのかもしれないと、ふと思った。

そしてまるで母がこれから行こうとしているその世界に、自分も今いるような気がした。

母の死 6

母の亡骸はきれいに死化粧され、病院の霊安室に運ばれた。

死装束に着替え両手を合掌した母に覆いかぶさるように強く強く抱きしめながら、
父が体を震わせながら泣いている。
「おまえは……本当に……本当に……、日本一の女だった!」
父は大粒の涙を零しながら何度も、何度も大声で叫び続けた。
訃報で再び集まった母の兄弟や親戚、友人が
一人残らず泣き崩れながら口々に母に呼び掛けている。

駐車場には、こうこうと月の光が射していた。
亡骸となった母が帰ってくる前におれは一人車でうちに向かった。

たった数時間前に出てきた家は、真っ暗だった。
鍵を開ける。
一部屋一部屋電気をつけていく。
どの部屋の照明も煌煌とつけていく。
何か月も母が寝たきりになっていた畳の部屋の照明も最大にした。
この部屋で母は手術後ずっと寝ていることが多かった。

この部屋は川のすぐそばにあって、夜には川のせせらぎが聞こえてくる。
夜中になるとその川には時々白い鳥が二羽佇んでいるのが部屋から見えた。
「白鷺の夫婦だね」
いつか母がおれに教えてくれた。
夏には夕方網戸にしておくと、涼しくて気持ちのいい風が入ってきた。

八畳のこの和室は川沿いの窓際に短い廊下があり、それを合わせると十畳ほどになる。
また庭に面した窓の内側にある障子戸の前には、
母が嗜んだ書道のための古い木製の座り机が置いてあった。

部屋の奥には母が元気な頃、毎日花を活けて飾っていた広い床の間もあった。
そしてその床の間のすぐ近くに、母のために揃えたベッドが置かれてあった。

この部屋は母が元気な頃からのたくさんの思い出が詰まっていた。
この部屋にもうすぐ母は亡骸として帰ってくる。

母を乗せた車がうちに着いた。
布団を敷いて、みんなで母を寝かせた。
両腕で抱えた母の体はとても小さく感じた。

夜中に葬儀屋が来て、これからの段取りをして帰っていった。

母の死 5

母の着替えを持って家を出たのは、夜の10時頃だった。
病院まで車で2、30分かかる。

道は空いていた。
夕方の母の容態からすると、今日はまだ持ち堪えるのではないかと思っていた。
その時がもし確かに訪れるとしても、それはまだ先のような気がしていた。
だからこそ母の着替えを取りに戻ったのだ。

おれはゆっくりと車を運転していた。
街中が静かな夜だった。
いつも渡る橋の上から満月が見えた。

車が滑るように病院の駐車場に入った。
北の棟にある玄関のすぐ近くに車を止める。
救命救急センターの入り口の隣にあるその玄関は、夜間になると1つしかない入り口だった。

自動ドアを開いて中に入ると、夜の病院はひっそりと静まり返っていた。
どこも照明が落としてあって、入り口から先は長く薄暗い廊下が続いていた。
エレベーターに乗り、5階で降りる。
母の部屋へと向かう自分の靴音だけが、誰もいない夜の廊下に響く。

母のいる部屋の扉を開けた。
部屋に入るとすぐ左側に父と兄が並んで立っていた。
奥の窓際の、母の寝ているベッドに何人かナースがいる。
おれが部屋に入ってきたのを見て、1人のナースが慌てたように声を掛けてきた。
「先ほど携帯に電話したんですが・・・、急におかあさんの容態が変わりまして」

気づかなかった。
おれはポケットから急いで携帯電話を取り出した。
病院からの着信は、10時29分になっていた。
ちょうど駐車場に車を入れようとしていた頃だ。
ナースステーションで患者の脳波をモニターで遠隔で監視できるようになっていて、母のそれが変わったので、すぐに電話を入れたという。

慌ただしく母の担当の医師が部屋に入ってきた。
真っ直ぐに母のもとに行くと、手に持ったペンライトで母の瞳孔を確認する。
それから自分の腕に巻かれてある時計を見て、低い声で言った。
「10時40分・・・、お亡くなりになりました」
母の顔を見た。
その顔はまだ眠っているように見えた。

「私たちも最善を尽くしましたが・・・、残念です」
医師が申し訳なさそうに口を開いた。
「先生・・・おふくろは先生のこと・・・すごく気に入っていたみたいで・・・、一生懸命やってくれるいい先生だって・・・、だから先生にこうして・・・最期に・・・看取っていただいて・・・、おふくろはきっと・・・幸せ・・・だと・・・思い・・・ま・・・す・・・」
言っている途中から涙が止まらなくなった。
あとは言葉にならなかった。

おれは両手で母の手を抱きしめるように握った。
もう血の廻っていない母の手はまだ冷たくなっていなかった。
その手はとてもやせ細っていて、しわくちゃだった。
皮膚もがさがさだった。
腕にはたくさんのしみができていた。
数え切れない注射や点滴の痕や、鬱血による黒く大きなしみがいくつもあった。

でもそれは、数え切れない苦労をしてきた手だった。
計り知れない痛みを耐えてきた腕だった。
家族と子供のために毎日野菜や食器を洗い、米を研ぎ、食事や弁当を作り続けてきてくれた手だった。
洗濯をし、干し、きれいに畳み続けてくれた手だった。
夜遅くまでアイロンをかけ、縫い物をしてきてくれた手だった。

子供時代の母は、親を手伝って信州のきびしい冬の凍りつくような冷たい井戸水で毎日洗い物や洗濯をしてきたという。
毎朝山へ薪を拾いに行き、田畑を耕し、家畜の世話をしてきたという。
母の手は、家族と子供のために朝早くから夜遅くまで精一杯家事をしてきてくれた手だった。

子供を産んで、必死に育ててきてくれた手だった。
病気の両親をいたわってきた手だった。
生と死の極限の中を何度も生き抜いてきた手だった。
そして家族を長い年月一生懸命愛し、支えてきてくれた手だった。

母はこの手で、腕でどれだけ家族を支え、尽くしてきてくれたのだろう。
この手で、腕でどれだけ家族を愛し、抱きしめてきてくれたのだろう。
どれだけ人を愛し、力になってきたのだろう。
この手で、腕で母はどれだけ涙を拭いて、どれだけの悲しみを乗り越えてきたのだろう。
どれだけの苦しみと痛みを乗り越えてきたのだろう。

母の手は最期まで生きるために戦い抜いた手だった。
母の手は精一杯人を愛し、人をやさしくいたわってきた手だった。
最期まで命を燃やし尽くした手だった。
そして「生きる」という、自分の責任を最後の最後まで果たし抜いた手だった。

おれは母の手を両手で包み込んだまま、泣いた。
母の顔は安らかだった。
もう苦しい思いも、痛い思いもすることはない。

「おふくろ・・・いままでずっとずっとありがとな。
おふくろの息子で・・・おれは本当によかったよ。
おれを産んでくれて・・・、育ててくれて・・・、本当に・・・、本当にありがとうございました」
今度は、しぜんと口から言葉が出ていた。
あとからあとから涙が溢れてきて、止まらない。

ふと今、母の魂は体から離れて、この部屋の天井から今のおれを、父を、兄を見ているのだろうかと思った。
そして、おれは零れ落ちる涙も拭かず、天井を長い間ずっと見つめていた。

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