自分自身になるために、生まれてきた。

きっと自分は、自分自身になるために、この世に生まれてきた。 生きるとは、自分にとって、自分が自分自身であるということなのだから。 世界でたった一人の、かけがえのない、ありのままの自分であるために。

2009年12月

再び、東京へ

母が亡くなってから、いつの間にか6年近くになろうとしている。
故郷を出たあの夜からは4年経った。

こちらに来てから、いろいろなことがあった。
過去には考えられないほど多くの人間に出会った。

気づくと、自分の環境も、つき合う人達も著しく変わっていた。
おれはここには書ききれないくらい、気づきと学びの機会に恵まれた。

埼玉では2年半暮らした。
現在は東京に住んでいる。

20代の頃、故郷に帰る時、東京に戻ることになるとは考えもしなかった。
人生とは不思議なものだ。

再び東京で暮らし始めて、自分の中で20代の頃と、今とでは東京に対する捉え方が違うことに気づいた。

昔はついていけない所だったが、今は面白い所なのかもしれないと思っている。
ここは大変な数の人間が集まり、そして地方とは比べ物にならないくらいの速さで、日々変化している。

そんな東京で暮らしているうちに、おれは人生も面白いものかもしれないと思うようになった。
自分の人生はまだこれからだと思っている。

そう思えるようになったのも、故郷を出てから自分自身が変わってきたからだと思う。

20年以上の歳月を経ておれは今、20代の頃自分が暮らしていた東京に再びいる。

故郷を離れる日 2

故郷を去る日が来た。

家を明け渡す時間は決まっていた。
時間になる直前まで、おれは残りの荷物をまとめていた。

車に最後の荷物を載せ終わった時、この家の新しい家族が不動産屋と一緒にやってきた。
おれと父は、家のすべての鍵を渡した。

いよいよこの家とのお別れだった。
車に乗り込む前に、おれは家の前に立った。
長い間世話になったこの家に別れを告げるためだった。

この家は父と母が新しい土地を買い、2度目に建てた家だった。
以前住んでいた家は、別の土地にあった。
そこは大通りに面していたため交通量が多く、夜も騒がしかった。
ここに来たのは、もっと静かな所で暮らしたいという理由からだった。

川がすぐ隣にあって、せせらぎの音が聞こえてくる閑静なこの家を一番気に入っていたのは、母だった。
それから20年近く家族で暮らした。
家の中も、周りも語り尽くすこともできないくらいたくさんの思い出が染み付いていた。

見上げると、家はちょうど西に傾きかけた陽の光を一杯に浴びているところだった。

玄関のそばには、いつか母が最後に退院した時、満開の花を咲かせて迎えてくれた山茶花があった。
今は花もなく、ひっそりと無言でおれたちを見送ってくれていた。

1階の軒先に目をやった。
庭に面したそこには昔、竹で作られた細長い椅子が2つ並べて置いてあった。
そこは父と母がよく座って、二人で楽しそうにお茶を飲んでいた場所だった。
でも今は、その椅子もなかった。

庭にあるすべての植木や植物が、残らずおれと父に静かに別れを告げている気がした。

川の向こうにある畑には、きっとこれからも光が降り注ぎ、毎年たくさんの野菜が育つだろう。
でも、もうそれを見ることはない。

おれは車に乗り込んだ。
車の窓から最後に一度だけ振り返った。

2階の自分の部屋だった所の窓ガラスに、西日が当たっていた。
その向こうには、真っ青な空が見えた。
ガラスに反射した光がその一瞬、きらきらとまばゆいばかりに自分の目に飛び込んできた。

この家を見たのは、それが最後だった。

インターチェンジに向かう時、母がずっと好きだった、あの並木道を通った。
棺に入った母が、最後に通った道だ。
おれは母を乗せて何度もこの道を車で走ったことを思い出した。

きっと自分の残りの人生の中で、この道を通ることはもうないだろう。
おれは今目の前の景色を、この道で見えるすべてのものを目に焼き付けようとしていた。

車がインターチェンジに入った。
高速道路を走り出すと、今自分がいたばかりの街が、夕映えにまぶしく輝きながら真下に広がっているのが見えた。

おれたち家族がずっとずっと長い間、生まれ、育ち、暮らしてきた街だった。
そしてもう二度と暮らすことのない街だった。

おれはこの街で生まれ、この街で育った。
この街に帰ってきた時には、自分はきっと死ぬまでここで暮らすことになると思っていた。

おれがかつていた幼稚園も、小学校も、中学校も、高校もみんなこの街の中にあった。

おれはこの街で泣き、笑い、叫び、もがき続けた。
この街には愛も、ほほえみも、やさしさも、喜びもあった。
恨みも、憎しみも、怒りも、悲しみもあった。

この街にはおれのすべてがあった。
おれの限りない思い出が埋まっていた。

でも今、すべてを越えておれの街は、夕映えの中で美しく輝いていた。
そしてきっとこれからは、この街はおれの心の中でいつまでも生き続けていくことだろう。

トンネルに入ると、もう街は見えなくなった。

ハンドルを握りながら、今こうして故郷を離れようとしていることが、おれにはまだ信じられなかった。
東京から帰ってきた頃、まさか自分が再びこの街をあとにすることになるなんて誰が想像できただろう。

人生とは何だろう。
人間とは何だろう。

おれはどこへ行くのだろう。
どこに向かっているのだろう。

おれは何のために生まれ、死んでいくのだろう。

車が進んでいく度に、故郷がどんどん後ろへと遠ざかっていった。
思い出がどんどん後ろへと遠ざかっていった。
おれは自分の今までの人生であった、いろいろなことを思い出していた。

いくつかのトンネルを抜け、車が群馬県との境にある碓井峠を越える時には、辺りはもうすっかり夜の闇に包まれていた。

車を走らせながら、おれも、父も今、人生の中の真っ暗な道をただひたすら疾走している気がした。
どこかにある夜明けをめざして。

埼玉の兄のマンションに着いたのは、真夜中近くだった。
その日は、兄の所に泊まった。

その夜おれは、布団に入っても目が冴えてなかなか眠れなかった。
おれは明日から始まるここでの新しい生活をあれこれ考えていた。
でも、結局何もわからなかった。

おれはもう何も考えないことにした。
ただこの先自分の人生でどんなことが起こっても、きっとあまり驚かない気がした。
一度はもう人生を捨てたようなものだったからだ。

翌日のニュースで、おれと父が家を出た数時間後に、故郷にその冬初めて雪が降ったことを知った。
しかもそれは大雪で、随分積もったということだった。
夜大雪の降り続く道を車で走る苦労は、身にしみていた。
車のタイヤも冬用には換えていなかった。

そのニュースを知った時、おれは母がきっといつもどこかで、ずっとおれたち家族を守ってくれていたのだと思った。

おれにはいつかきっと、故郷を離れたこの夜のことを振り返る日が来るだろう。
その時おれは、もしかしたら生きること、そして輝くことの本当の意味を、答えを知るのかもしれない。

そう思った。

故郷を離れる日 1

おれは故郷を離れることになった。

長年父と母と一緒に暮らしてきた家は、人手に渡ることになった。
おれも、父もこの家を引き払う準備を始めた。

改めて気づいたのは、家中にある物だった。
家具、電化製品、寝具、服、日用品に至るまで、ありとあらゆる物があった。

庭には多くの植物や木が植えられていた。
鉢に入った花や植物も、いくつも整然と置かれていた。
家の中にもたくさんの観葉植物が並べられていた。

それは大変な量だった。

あとわずか1か月のうちに、家の中をすべて空っぽにしなければならなかった。
父とおれは、来る日も来る日も家中の物の整理と処分に追われた。

母にまつわる物も多かった。
母は昔から物を大切にしてきた人だった。

おれにとって母の物を一つ一つ取り出して処分していくことは、とても辛いことだった。
一つ一つの物に母の思い出が強くつながっていた。
手に取る度に母の顔とともに、その時の情景が鮮やかに蘇った。
まるで目の前に母の姿が見え、母の声が聞こえてくるようだった。

こらえきれず母の物を手にしたまま一人泣くこともよくあった。
気持ちが治まるまでは次の物に手がつかなかった。
その度に引っ越しの作業はなかなか進まなくなった。

自分と父の服にも、毛布や布団カバーなどの寝具にも、下着にさえ母が毎日夜遅くまでていねいに工夫して縫い物をしてくれていた跡が残っていた。
それらを目にすると、熱いものが込み上げてきて胸が一杯になった。

母が大切に仕舞っていた写真もたくさんあった。
さまざまな場所で仲のいい友人や、仲間や、家族と一緒に笑顔の母が写っていた。
どの写真の母もとても幸せそうに見えた。

それらを一枚一枚手に取りながら、おれは母の人生は辛いことや苦しいことだけではなく、きっと楽しかったことも、心の底から笑ったことも、穏やかで平和に満ちた瞬間も数限りなくあったのだと思った。

母が華道の先生になった時に玄関に掲げた看板も、たくさんの花器も、花鋏もあった。

母は結婚して子供が産まれてからも家庭と両立させながらできることを見つけた。
それが華道の先生だった。
家元の所へ通い続け、師範の資格を取った。
そして多くのお弟子さんに華道の素晴らしさを伝え続けた。
それは母のライフワークだった。
母が一生懸命稽古を続けて得たその看板は、今もおれのそばにある。

形見となってしまった母の洋服や、バッグや、アクセサリーは、叔母さんや、母の友人の方々に分けた。
それらは母にゆかりのある人たちに着てもらい、身につけてもらいたかった。
母もきっと喜んでいるはずだった。

「お前が結婚したら、お前の嫁さんに着物でも何でもみんなあげるんだ」
母は昔おれにそう言っていた。
でもそれは結局実現しないままになってしまった。
着物はすべて叔母さんに持っていてもらうことにした。

母が長い間丹精を込めて育てた大小さまざまな種類の植木や植物は、庭のほとんどを覆い尽くすほどあった。
何本もの植木や花は親戚にあげた。
何度も来てもらい、運んでもらった。
その度にみんなで庭の土をスコップやつるはしで掘り起こし、軽トラックの荷台一杯に積み込んだ。

母の愛した花や植物は、きっと母の想いとともにこれからはいろいろな庭でさらに大きく育ち、毎年のように美しい花を咲かせていくことだろう。

庭にある植木や植物は、それでもまだ3分の2以上が残っていた。
それはもうこの家に来る新しい家族に引き継いでもらうことになった。

川の向こうには、家族で借りていた畑があった。
母はそこで土を耕し、たくさんの野菜を作った。
畑仕事は元気な頃の母の生き甲斐でもあった。

手ぬぐいを頭にかぶり、畑の中で陽の光を一杯に浴びて楽しそうに笑っていた母の顔を、おれは今でもはっきりと覚えている。

その畑は近所の親しかった人があとを借りることになった。

家具も、電化製品も、インテリアもほとんどを人にあげたり、処分した。

最後まで譲る人が見つからなかった家具もあった。
それらは新しい住まいに持っていくには大きすぎたり、不用だったりした。
それらを処分するためにはばらばらにするしかなかった。

おれと父は、懐かしい思い出のたくさん詰まった家具を一つ一つ壊していった。
おれは壊す前にその一つ一つをていねいに写真に収めた。

処分する物は大量になった。

20代の頃、おれは東京から故郷に帰ってきた。
その時は自分が再びこの故郷を離れることになるとは、全く想像もしていなかった。
もう自分は死ぬまでこの土地を離れることはないと思っていた。
残りの人生は終わりが来るまでここで穏やかに過ぎていくものだと思っていた。
自分が死んだ時はこの故郷の土に還るのだとばかり思っていた。

ここを出て行くと決意した日から、まだ1か月も経っていなかった。
人生は本当に想像もつかないことが起こるものだった。
運命というものは計り知れなかった。
おれは人間の運命というものをその奥で動かしている不可思議な力の正体を、大いなる存在というものを、この時強く感じていた。

壊した物は廃棄したり、焼却場に持っていく物もあったが、大部分は畑で燃やした。
その中には、闘病していた頃の母のために用意しておいた大量の紙のおむつや下着もあった。
それらを燃やしながらおれは、今はすべての痛みや苦しみから解き放たれている母を想った。

一つ一つが数えきれない思い出とともに、白や灰色の煙となって空高く上り、やがて吸い込まれるように消えていった。
あとには灰だけが残った。

おれは消えていった煙の行方を、いつまでもずっと追いかけていた。

いままでの人生を変えるために 2

長年住み慣れた故郷を捨てて、新しい地で人生をやり直そうと思ったあの日のことを、おれはずっと忘れないだろう。
きっとおれの人生は、あの日から変わり始めたのだ。

おれがそのための新しい土地として思い浮かんだのは、兄が住んでいる埼玉だった。
おれは自分が考えたことを正直に父に話した。
ずっと憎んでいた父だったが、最後の最後には置いていけない気がしたからだった。

でももし父がずっとここで暮らしていくつもりだったら、父を置いて一人でも行くつもりだった。
おれはその時それだけの決心をしていた。
しかし意外なことに父は、自分も一緒にこの地を離れて兄の近くに移り住むと言った。

おれはもちろん、新しい土地で同じように一つ屋根の下で父と一緒に暮らすつもりはなかった。
新しい土地で、お互い近い所に住めればいいと思っていた。
近所だけれど、それぞれがそれぞれの所で暮らすのだ。

そして母と長年ずっと一緒に暮らしてきたこの家を売りに出すことにした。
そう決めて不動産屋に依頼して広告を出したのが、9月のことだった。
すぐに2組が家を見に来て、10月にはこの家の次の住人が決まった。
おれは父と急いで埼玉まで出向いていった。
そこで父の入居する老人ホームと、おれの住むアパートを契約して帰ってきた。

不思議なことに、決意してからわずか1か月足らずのうちにすべてが決まった。
人生が音を立てて変わり始めた気がした。

東京に住んでいた頃から20年もたっていたので、おれには新しい土地には兄の他には誰も知り合いがいなかった。
それでも、この頃のおれにはたった一つだけ望みがあった。

おれはたまたまインターネットで、ある心理療法家の先生のホームページに辿り着いた。
その先生が開いている、セラピストの養成講座を受けようと思っていたのだ。
その講座は東京で開催されていて、埼玉からなら毎回通うことができるはずだった。

ホームページの中には、ある日その先生がストレスからうつ状態になり、交差点で衝動的に飛び込み自殺をしてしまいそうになったことが書かれてあった。
そのたった一つの文章が、それからの自分の人生を変えることになった。
おれは、このひとならきっと自分のことをわかってくれるのではないかと思った。

心理療法がどういうものなのか、その頃のおれはほとんど何も知らなかった。
それでもその講座こそが、何もかもがんじがらめになっていた自分の人生を変えるための、たった一つの道であるような気がした。
そしてそこは、新しい地へ行こうと決めたその頃のおれの唯一の心の支えだった。

長野の家を引き払うのは、11月最後の日に決まった。

いままでの人生を変えるために 1

それからおれは再び一人きりになった。

もう夜出掛けることも、人とのつき合いも一切やめてしまった。
仕事が終わると、毎日また自分の部屋にこもりきりになった。

すべてが振り出しに戻った気がした。
母が亡くなってから自分は一体何をしてきたのだろう。
得たものなど何もなかった。

相変わらず母が亡くなったことに対する罪悪感で自分を激しく責め、父を執拗に憎み続けていた。
そんな中、他人に対する決して報われることのない努力にエネルギーを使い果たしてしまった。
挙げ句の果てに見下され、つけ込まれ、もうおれは生きることすべてに消耗してしまった。

自分にとってもはや生きることは徒労にすぎなかった。
あらゆる面でおれはすっかり行き詰まってしまっていた。
まさかこんなかたちで自分の人生が行き詰まるとは、昔は思いもしなかった。

幼い頃おれは、人間は誰もがずっと幸せな人生を歩んでいくのだと信じていた。
自分の人生はずっと順調に進んでいくのだとばかり思っていた。
父も、母も、兄も家族はいつまでも仲良く幸せに暮らし、みんながずっと健康で長生きしていくのだと思っていた。
友達や周りの人たちに恵まれ、自分もいつかは新しいあたたかい家庭を作るのだと思っていた。
自分もやりたいことを存分にして生きていくのだと思っていた。

でも、そうではなかった。
いつしか運命の歯車が狂い出した。
あんなに明るく、愛情に満ちて健康だった母が亡くなり、気がつくと、残ったおれも、父も、兄も家族みんなそれぞれがばらばらで一人一人になっていた。
自分が友達だと思っていた人間たちにはつけ込まれ、利用された。

おれにはもう自分の人生のことなど何も考えられなくなっていた。
生きる意味もへったくれもなかった。
人間なんて。
自分なんて。

おれは人生に絶望していた。
人間に、自分自身に絶望していた。
その頃おれは、運命というものを何度呪ったことだろう。

もうおれはその頃のすべてから抜け出したかった。
すべてが嫌になってしまった。
うちでの異常な生活も。
自分の周りのくだらない人間関係も。
自分の心の中で起こっていたことも。
何もかも。

このままでは何も変わらなかった。
でももう変わらなければ、とても前を見て自分の人生を生きていくことは不可能だった。
ただおれには決して死ねない理由だけがあった。
だとしたら、おれはもう自分の人生を変えるしかなかった。
人生を変えることにしか、自分のこれから生きていく道は残されていなかった。
でもその頃のおれには一体どうしたらいいのかわからなかった。
そしてまた時間だけが空しく過ぎていった。

そんな時のことだった。
母が亡くなってから1年半がたっていた。
ある日突然、その考えが浮かんだ。
それは今までの自分にとって想像もしなかった答えだった。
それはすべてにおいて行き詰まり、もう死ぬことも、生きることもできなくなっていた自分がやっとつかんだ、たった一つの出口だった。

その答えに辿り着いた瞬間、自分の中で何かが震える気がした。
そして自分の中でその時何かが動き出すのを、おれははっきりと感じていた。

20代の頃東京にいたこともある自分も、振り返ると故郷に帰ってきてから20年近くになろうしていた。
父も若い頃一度故郷を離れたことがあっただけで、あとはここで50年以上暮らしていた。
しかしもうここまで行き詰まってしまったら、この故郷を離れて、新しい土地でお互いに新しく人生をやり直すしかないのではないかと、その日おれは思ったのだ。

もう故郷を捨てて、それまでのすべてを捨てて、新しい土地で自分の人生を白紙からやるしかないと、おれは思った。
それはそれまでの住む所も、会社も、仕事も、地元の人間関係もすべて捨てることを意味していた。
それしかもう状況を突破できないと、あの日おれは強く思った。

それはいきなり閃きとしてやってきた。
それは今までのおれが一度も思ったこともない考えだった。

今振り返ると、それは何かの導きだったような気がする。

もう一つの問題 5

うちでは同じ家にいながら父と顔を合わせない孤独な生活を過ごし、外では友人と思い込んでいた人間たちに見下され、つけ込まれてきた。

もしその頃、ありのままのおれを受け入れてくれる人間や、対等でお互いを認め合える人達にもっと多く出会っていたら、きっとおれはずっと早く立ち直っていたかもしれない。
きっとその頃も自分の周りをよく見渡してみると、そういうまともな人達もたくさんいたはずだった。

しかしなぜかその頃のおれはいつも、自分を見下しつけ込んでくるような人間ばかりを引きつけてしまっていた。
またそういう人間は向こうからも寄ってきた。

利己的でずるくてたくましい人間と弱くて迎合的な人間は、例えてみるとまさに鍵と鍵穴だった。
それはいつでもどこでもぴたりと合ってしまう関係だった。
片方は他人に優越しようとし、片方は他人に卑屈に迎合していく。
それによってずるい人間が得るものは他人を踏み台にした自分の利益であり、弱い人間が得るものは保護されることによる安心だった。

おれはその頃立て続けにそういう目に遭うまで、この世の中に他人の弱さや寂しさにつけ込んでくる人間がいるのだということを、本当にはわかっていなかった気がする。
昔からずっとそういう目に遭っていながら、他人が見えていなかった。
それは自分という人間が、自分自身には全く見えていなかったからでもあった。
人間は自分を知ることで、初めて他人を知ることができるからだ。

その頃までのおれは、そういう利己的でずるい人間とばかり関わりを持ってしまっていた。
その結果、友人だと思い込んでいた人間たちにことごとく裏切られることになった。
そういう人間は、もともとそういう人間だったのだ。

おれはあまりにも弱かった。
おれは他人に言いたいことも満足に言えなかった。
余程のことでないと抗議一つできない人間だった。
いつも他人にいい顔ばかりしていた。
嫌な顔一つできなかった。
いつも自分を殺し、他人に合わせてばかりいた。
おれはなぜいつもそういう人間たちにつけ込まれ、利用されるだけの寂しくて弱い存在になり下がってしまったのだろうか。

おれの心の奥にはずっと恐怖というものがあった。
自分という存在は結局は世の中に見捨てられるのではないか、という恐怖がいつも付きまとっていた。
そのためなのではないだろうか。

おれの中には、ずっと昔から人間に対する恐怖というものが染み付いていた。
おれは人間がこわかった。
対人関係というものが全くわからなかった。
まだひきこもりという言葉もないような時代に、何年もひきこもりをした。

おれは心の底で深く傷ついていた。
初めから傷ついたままだった。
心の底に恐怖がまるで埋め込まれていたかのように、ずっと存在していた。

そんな深く傷ついていた自分が選び続けてきた他人との関わり方が、迎合することだった。
そして世の中にはそういう、弱く傷ついている人間につけ込む人間もまた同時に存在していた。

それまでのおれの人生の多くは屈辱にまみれていた。
おれは昔から思っていた。
せっかくこの世に生まれてきたのになぜおれはこんなに惨めな思いをしてきたのだろうか、と。

おれはいままで他人に嫌われないように頑張ってきた。
その時その時の感情を抑え、他人に迎合することで相手の好意を得ようとしてきた。
その結果他人に振り回され、つけ込まれ、利用されてきてしまった。

その度におれは自分を責め続けた。
おれは自分の実際の感情を表に出すことができなかった。
他人に真っ正面から自分の意見を主張することもできなかった。

おれには、自分というものがなかった。
他人の好意という幻想にしがみついていただけだった。
そしてその幻想がくずれる度に、今度は自分の中に恨みと憎しみを長い間持ち続けることになった。

自分への誇りを忘れて惨めに生きてしまうと、どこまでいってもきりがなかった。
そしてずっとそういう惨めな人生にしてきたのはあの頃の、他ならぬ自分自身だったのだ。
屈辱を味わう度に、自分を情けなく惨めに感じる度に、おれはよく思ったものだ。
おれは神様の最大の失敗作なのではないだろうか、と。

おれの中に絶えず自分をそうなるように仕向けてきた、もう一つの心の闇があった。
しかしその頃のおれはまだ、自分の中のそれとまともに向き合うことができなかった。

もう一つの問題 4

その頃のおれには、そういう出来事が他にもいろいろ起きていた。

しかしそれはまだ自分にとっては、遥か昔から繰り返し起きていた多くの似たような出来事の一部にしか過ぎなかった。
枚挙にいとまがないほどだ。

おれを見下し、蔑む人間は、昔からいつでもどこにでも存在していた。
おれはつけ込まれ、軽く扱われ、利用された。
酷いところでいえば、いじめを受けたり、警察に相談するような詐欺の被害にさえ遭ってきた。

その度におれは傷ついてきた。
というより、おれ自身が初めから深く傷ついていたのだ。
だからこそ、そういう人間たちが自分の周りには特別に集まりやすかったのだと、今では思っている。

それはおれ自身が変わらなかったためにずっと解決しないできた、長年の問題だった。
そしてまたそういう出来事が、その頃一気におれの身に起きていたのだった。

その頃のおれは寂しさのかたまりだった。
そして心の中にあったその深い寂しさのために、誰にでもすがりつこうとしていた。
おれは寂しさの正体だった、自分の心の中にあった愛情に対する根強い飢餓感を、誰でもいいから埋めてもらいたかったのだ。
だからその頃友人と思い込んでいた人間たちは、不幸なことに実は大抵がそれにつけ込んでくる利己的でずるくたくましい人間たちばかりだったということにさえ、おれは気づくことができなかった。

またずるい人間は、弱い人間を嗅ぎ分けるのが巧みだった。
彼らに共通していたのは、おれのように他人に嫌われないように自分を犠牲にして相手に迎合していくような人間につけ込み、自分の利益のために都合のいいようにそれを利用するところだった。

あるいは心の中で見下したり、軽く扱うこと自体が彼らの目的であったりもした。
そうすることで、彼らは少しでも人より自分が優位にいる気分を味わえるからだった。
心の中に隠している底知れぬ劣等感を、そうすることで果たしていた。

彼らは一人でいる時には、自分自身の中に力を感じることができない。
絶えず人間関係の中で自分が人より優位であると感じる時にしか、自分の価値を確認することができない人間たちだった。
弱い人間を見下し、弱さにつけ込み、自分に都合よく利用することでしかそれを感じることができなかった。

彼らには、自分のことを抑圧し相手の要求に逆らえないような、弱い人間が必要だった。
要するに彼らも弱い人間と同じように深く傷ついていて、癒されていない人間なのだ。

ただずるい人間が弱い人間と決定的に違うのは、その傷を癒そうとする方法だった。
彼らはNOと言えない、自己主張できないような弱い人間につけ込み、それを徹底的に利用してきた。

誇り高い人間だったら、そんなことするものか。

もう一つの問題 3

またこんなこともあった。
その女性は大手の保険会社に勤めていた。
彼女とは昔からの知り合いで、友人として集まりがある時にはお互いに顔を合わせる間柄でもあった。

ある日彼女から電話がかかってきた。
自分の仕事のノルマを達成したいから何か一つ保険に入ってくれと言う。
会って話を聞くと、3か月でいいから何かの保険に入ってくれないかと頼み込まれた。

彼女は母の葬儀に来てくれた人だった。
だから余計に断りにくかった。
それにその頃のおれは人から頼まれるとなかなか断れない人間だった。
なぜかはまだおれにはわからなかった。

その頃のおれの中には決まって、自分の気持ちよりも相手の要求を無意識に優先させてしまう何かがあった。
相手の要求を受け入れることが相手を失望させないことだと思い込んでいた。
自分を犠牲にしてでも。

おれは相手の失望した声を聞きたくなかった。
相手の失望した顔を見たくなかった。
相手を失望させることは罪なことだとさえ感じていた。

またそうしてしまえばその相手との関係は終わってしまう。
とにかくどんな希薄な友情だろうと,孤独な自分にはそれが切れることが耐えられなかった。

今なら思う。
そんなことで終わる関係なら、できるだけ早いうちに終わらせてしまった方がいいと。
でも当時の自分は全く気がついていなかった。

とにかくたったそれだけのことで、自分には全く必要のない保険の契約をしてしまった。

3か月が過ぎた頃、おれは解約したいと電話で彼女に伝えた。
しかしその時彼女は言った。
「今解約されたら私の利益がまだ出ないので、もう少し続けてみて」

それは最初の約束と違うおかしな話だった。
そこには彼女の都合だけしかなかった。
こっちが抗議したっておかしくない状況だ。
それなのにその時の自分は、彼女の説得に難なく屈して抗議することもなく、そのまま保険を続けることになった。
おれは自分に必要もない保険料を、さらに払い続けることになった。

その保険の契約もとうとう10か月になろうとしていたある日、今度こそはっきりと解約しようとおれは決心した。
親切心で払い続けるには、さすがのおれにも限界だった。
しかしお人好しだったおれは、今の保険を解約する代わりに自動車の強制保険だけでも、今までの他の保険屋から彼女に代えてあげようとさえ考えていた。

はっきりと解約したい、と電話をかけた時の彼女の言葉も忘れられない。
「契約して13か月たたないうちに解約されたら、私ペナルティーを会社に払わなければならなくなるじゃないの!」
「それにそんな自動車保険に入ってくれたってまだペナルティーの方が多いんだから!」
そう罵って電話を切ったのだ。

話が違うじゃないか、と思った。
3か月で解約してもいいと言ったじゃないか。
おれはただ友人として助けてやろうと思っただけだ。
困って頼み込んできたから、かわいそうに思って協力してあげた。
むしろ感謝されるべきだろう。
それなのになぜここまで言われなければならないのかと思った。

結局こっちが友人と思っていても、彼女はただ自分が会社から被るペナルティーのことしか頭になかった。
なぜおれがおれの保険を解約する自由さえ彼女は認めないのだろう。
お金を払い続けているのはこっちなのに。

それでもおれが実際に解約したのは、その保険に入って13か月が過ぎるのを待ってあげてからだった。
13か月がやっと過ぎて、直接保険会社に契約書を持って解約に行った時に、受付で言われた。
「あ、その担当の人は去年の12月で会社をやめましたよ」

その12月というのは、おれが解約したい旨の電話を彼女に2度目にした月だった。
その女性は契約しているおれに連絡もしないで、とっくにその会社をやめていたのだ。
おれはそれも知らずにそれから4か月もその保険の支払いを無駄に続けていたということになる。

結局その人間に振り回され、13か月も無駄に払い続けた保険料の総額は10万円以上になった。

もう一つの問題 2

またその当時つき合っていた別の人間が、おれの車を運転したことがあった。
彼は誤って車をバックさせた。
駐車場の壁に激突した車の後部は大破した。
それなのに壊れた車を板金屋に持っていったのはおれだった。

車が修理し終えるのに一か月くらいかかった。
それまで彼からは謝罪はおろか連絡が来たことは一度もなかった。

おれが修理代を請求する電話をかけた時の彼の言葉は忘れられない。
「何でおれが払わなきゃいけないんだ!」
開口一番そう言ったのだ。
そして開き直ってあれこれを言ってきた。
「今おれには金がない」
「おまえも助手席に乗っていただろう」
「おまえもそんなにお金はかからないように見えると言ってたじゃないか」

修理に出すと、バンパーをそっくり取り替えなければならなかった。
昼間明るい所で見ると、いろいろな所がへこんでいた。
塗装代もかかった。
想像以上の代金になったと、おれは彼に言った。
結局おれは彼と修理代を半分ずつ払うことになった。

おれは思った。
おれがもし彼の立場だったらどうだろうかと。
友人の車を運転していてぶつけたとしたら修理に出している間、何の連絡もしないだろうか。
開き直って「何でおれが払わなければならないんだ!」などと言うだろうか。
ましていろいろな理由を付けて払わないで済まそうなどと考えるだろうか。

服を売りつけてきた人間についてもそうだ。
おれが同じ立場だったら、友人に服を高く売りつけておいてさらに吹っ掛けるような真似をするはずもなかった。

要するに彼らはおれのことを決して友人だなどとは思っていなかったのだろう。
そればかりかその頃のおれは、周りにとって都合のいい人間としてしか見られていなかった。
弱く寂しかったその頃のおれは軽く扱われていた。
周りの人間からいつも低く見られていた。
対等と言えるつき合いはまるでなかった。
おれは舐められていたのだ。

おれはそういう人間たちを、なぜ本当の友人だなどと本気で信じてしまっていたのだろうか。

もう一つの問題 1

おれは相変わらず父と同じ一つの家の中で一切顔を合わせない、別々の生活を続けていた。
その頃家の外でもう一つの問題があった。

母が亡くなったその年も秋に差し掛かる頃だった。
いままでは単なる知り合いに過ぎなかった人間とのつき合いが多くなった。
夜になる度におれは頻繁に出掛けるようになっていった。

いつも夜の街でおもしろおかしく過ごようになった。
おれはこれからの自分の人生についてまともに考えることもしなかった。
自分に向き合うこともせず、現実から目をそらし続けた。

飲んで騒いでいる間は辛い過去も、孤独な生活もすべて忘れられる気がした。
もう辛いことはすべて終わり、人生は楽しいものだとおれは懸命に思い込もうとしていた。
でも本当は寂しかっただけだった。
束の間のどんちゃん騒ぎで気を紛らわせていただけだったのだ。

本当は寂しくて寂しくていられなかった。
おもしろおかしい場所にずっといたかった。
誰かに必死ですがりつきたくて仕方がなかっただけだった。

母ももう家にはいなかった。
憎むべき父が一緒にいると思うだけで気が滅入る家にはいたくもなかった。
自分の部屋には帰りたくなかった。
一人きりになると決まって死にたくなるからだった。

おれはその頃、自分一人では心の中にぽっかりとできた孤独の深い穴を埋めることができなかった。
しかし今振り返ると不幸なことにその頃のおれの周りには、ありのままのおれを受け入れてくれる人間がいなかった。
利害もなしに相談に乗ってくれる人間も、対等でお互いを認め合えるような人間も誰一人いなかった。
上辺だけのつき合いの人間しかいなかった。
それなのにおれはそんな人間たちを唯一おれを理解してくれている本当の友人だと思い込んでいた。

その一人からある夜遅く電話がかかってきたことがあった。
今自分の友達と一緒だけど、これから飲みに出てこないかと言ってきた。
かなり遅い時間だったが、おれは即座に行くと答えた。
そして急いでよそゆきの服に着替えるため電話を切ろうとした。
その瞬間、彼が他の人間たちに話している声が聞こえた。
「こいつは誘うとすぐ来る。数合わせにちょうどいい」

おれはそういう人間でも本当の友人だと思い込んでいた。
そして今では全く信じられないことだが、すぐにそんなはずはない、彼はおれが孤独でいるのをわざわざ誘ってくれたのだと、自分で自分を納得させていた。

繁華街に着くと、彼のこれから入ろうとしている店に連れていかれた。
ちょうどおれが一人入ったことで人数が揃い料金が安くなった。
その事実にもおれは目をそむけたままだった。

彼はアパレル業界の、服を卸す会社で働いていた。
ある時彼がジャケットを買わないかと言ってきた。
値段はいくらなのか聞いた。
本当はジャケットはすでに何着も持っていて買わなくてよかった。
しかしその時おれは断れなかった。
嫌われるのがこわかったからだ。

展示会に行くとたくさんのジャケットが並んで吊るしてあった。
それにも関わらず彼はおれのためにと一着のジャケットを出してきた。
値段を聞いた。
最初彼が持ちかけてきた値段は3万円くらいだったが、その倍になっていた。

頭の中では話が違うと思った。
抗議したいと思った。
しかしおれは彼に大袈裟に感謝していた。
気がつくとにこにこしてお金を払っていた。
すると彼はさらにもっと値段の高いスーツの上下まで売りつけようとしてきた。
さすがにそれは断った。

その頃おれが友人と信じて疑わなかった人間というのは、こういう人間たちだったのだ。

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島田 隆

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