しかし今、父への憎しみは全くといいほど感じられなくなった。
長い年月がかかったけれど、おれはやっとその頃の父を許せた気がする。

父はかわいそうだった。
父は十何番目かの子供として大家族に生まれた。
そして父の家は近所に住んでいる心を病んだ人によって三回も放火されその度に全焼し、極度の貧乏になり、学校に行くどころか小さい頃から働きに行かせられた。
さらにその父親があるだけのお金をすべて酒に注ぎ込むような人で、いつまでたっても父の家は貧乏のままだった。
父はほとんど親に甘えたことも、認めてもらったこともなかったのだろう。

父は親から何の財産ももらったわけでもなく、母と一緒になって高い土地に一軒家を建てた。
そしてそのローンを払い続け、家族を養うために夜遅くなるまでへとへとになるまで働いた。
朝から夕方までと、夕方から夜遅くなるまで二箇所で働いていたこともある。
父は親に甘えた記憶がほとんどないばかりか、貧乏な子供時代に他人から蔑まれた経験と自分の学歴の低かったことが根強く劣等感としてあった。
だから、父が生きるのをささえてきたのは、世間への憎しみと敵意だったのかもしれない。

そんな父でもいきなり子供にたくさんのおもちゃや、読みきれないほどの本を買ってきてくれた。
おれが幼稚園に通う時、いつも自転車やバイクの後ろに乗せていってくれた。
その時の父の後ろで風を切っていく時の爽快な感じが今も記憶に鮮明に残っている。
それは不器用なものだったかもしれないけれど、それでもそれは、こういう父の子供への精一杯の愛情ではなかっただろうか。
そしてこういう父がいなければ、今のおれは存在していない。

今おれは思う。
父とおれはじつは直接関係なかったのだと。
父は父自身への加害者であると同時に自分自身からの被害者であり、おれも自分自身への加害者であると同時に自分自身からの被害者だったのだ。
人間は自分自身を直接傷つけることができるのは、自分自身しかいない。
お互いに自分自身を苦しめ、自分で自分を生き辛くさせていただけなのだと。

今思うとこの長かった経験は、おれにたくさんのことを教えてくれた。
人間はどうして生き辛くなっていくのかとか、どうして不幸になっていくのかを。
そうであるなら、きっとおれは今この経験から汲み取れるものはたくさんある。
どうしたら人は自分を愛し前向きにいきいきと生きていくことができるのかとか、どうしたら人は幸せに生きていけるのかとかをだ。
だからそれは人として、セラピストとしてじつは得難い経験だったのではないかと今思っている。

父にはこの前久し振りに電話をした。
今父は老人ホームにいて、周りに友達や仲間がいてとても元気そうだった。
反対におれの心配をしてくれた。

やっと今、自分の過去のひとつを許せる気がする。
おれは今、自分が置き去りにしたままの過去の一つ一つに現在の自分から架け橋を架けようとしている。
今の自分なら過去苦しんできた自分に対して癒してあげることも、その時の出来事の捉え方や解釈を変えてあげられる気がする。

そして、置き去りにしてきた過去の一つ一つに架け橋を架けてあげるたびに、不思議なことに今の自分の中に力が芽生えつつある気がする。
それは、もとからあった自分自身が次第に蘇ってくる感じだ。
きっといままで自分の中で分裂していたものが統合されて一緒になり、さらに大きな力となっていくからだと思う。

そして、それがきっと人間が成長していくことなのだと、今おれは勝手に思っている。