まだ夜が明けきらないうちに、おれは父と兄に電話した。

朝になってやっと医者が来た。
そして母の兄弟や親戚が病院に集まってきた。
おれからの電話の後、父がすぐに連絡を入れたらしい。

医者は母を一目見ると、なぜこうなったのかわからないと頭を振った。
「個室に移して下さい」と、医者は言った。
そしてしばらくして医者が父と、兄と、おれに言った。
「ご家族の方にお話があります」
母を個室に移して下さいと言われた時に感じた予感が、おれの胸を激しく締め付けていた。

狭い部屋の中で医者が険しい表情で口を開いた。
「覚悟しておいて下さい」
テレビドラマの中にあった、これとよく似たシーンを思い出した。
その時はまさか自分にこんな場面が訪れるとは想像もしていなかった。
おれはいままでそんなドラマをずっと他人事として見ていたのだ。

おれは聞いた。
「先生、おふくろはもう治る見込みはないんですか」
「おかあさんはもう、今以上よくなることはありません」
今のままか、もっと悪くなるかしかないと、医者は言った。

「先生、母の今の痛みをどうにかできませんか」
そうおれが聞くと、医者は答えた。
「たった1つだけ方法があります。でも、それでも現状のままですが」
しかし、おれたち家族は母のためにその方法しかもう選択することはできなかった。

病室に戻ると、母の痛みはもう極限ではないかと思う様子だった。
その時の母のことを思い出すと、今のおれにはその詳細をここに書くことはできない。

でも母は最後まで戦っていた。
母は最後の最後まで生きようとしていた。
それはこの世に生を受けた自分の命に対しての責任を果たそうとしているかのような、必死の戦いだった。

おれは母の右手を握り締めた。
兄が母の左手を握っていた。
おれは涙も拭かずにその時はまだ決して言いたくなかった母への別れの言葉を言った。
「おふくろ。おれを産んでくれてありがとう。一生懸命育ててくれて本当にありがとう」

母の手はまだあたたかだった。
まだ母の手のぬくもりは、おれが幼かった頃抱きしめてくれたそのままだった。
母は何も答えられる状態ではなかった。
でもきっと母の耳には聞こえているはずだ。
おれはもう覚悟するしかなかった。

でもその時母は、言葉にできないほどの痛みにもがき苦しみながらも、なお生きようとしていたのだ。