おれが今住んでいる自宅のベランダには、鉢に植えられたくちなしがある。
毎年のように白い花を咲かせ、甘い香りを放っている。

それはもとはというと、母が昔、近所の家から枝を一本だけ譲ってもらってきたものだった。
母はそれを挿し木から自宅の庭で丹精を尽くして育て上げ、増やした。
おれはその何本もの中から一本を植木鉢に移し替えて、引っ越しの度にそれだけは大事に持ってきた。

近所のうちというのは、高校で園芸科を教えていた先生のうちだった。
その先生は母に、「くちなしの木は挿し木から育てるのは無理ですよ」と、言ったそうだ。
それでも母は、そのくちなしの挿し木をさらに根が張りにくく育ちにくいと言われている真冬の2月に庭に植えて、育て上げたのだ。

おれは父と長野のうちをあとにする時、母の思い出のそのくちなしを植木鉢に植え替えて埼玉へと持ってきた。
母の形見だった。
今は東京の自宅のベランダにある。

おれはそのくちなしの白い花が咲く時、陽の光を浴びるその緑の葉に触れる時、その甘い香りを嗅ぐ時、決まって母のことを思い出す。
そしてその度にそれは、ありのままの自分としてかつて自分が産まれた時から何十年も母にずっとずっと愛されてきた紛れもない事実を、いつでもおれに思い出させてくれる。

5年という歳月を経て、おれは今やっと過去のことを振り返れるようになった。
おれは母のこと、父のこと、家族のこと、そして過去の自分自身のことをできる限り克明に思い出そうとした。
そしてその過程で、過去は自分を辛く傷つけてきたかもしれないけれど、じつは今の自分自身を癒してくれる大きな力もその中に眠っていることを知った。

あの日から歩き続け、癒され、変わり続けてきた今のおれにとって自分自身を癒すということは、過去の自分を癒すことに他ならなかった。
そして過去の自分を癒すには、自分の過去と向き合わなければならなかった。

おれは今までどこかでずっと辛かった過去から逃げていた。
でも過去から逃げている限り、辛い過去は追いかけてきた。
今の自分は過去の自分を忘れても、過去の自分は今の自分が訪れてくれるのをいつまでも待っている。

今おれは辛い過去から、悲しい思い出から目をそらさないでいられるようになった。
今の自分が幸せになるにしたがって、どんな辛く苦しい過去であっても、そんな過去のすべてをまるごと今の自分が受け入れてあげられるようになる。
それが過去の自分を癒し、自分自身を癒すことになるのだとおれは思う。

ときどき今もしここに母がいたらどうしているだろうかとか、もし母が肝臓癌にならなかったらどんな人生を送っているだろうと考える時がある。
でもこれがおれと、母と、家族の運命だったのだ。

今、目を閉じると、辛いことや悲しいことだけでなく、楽しかった時、幸せだった時の母のこともはっきりと思い出すことができる。
一度亡くなった母が今自分の心の中で再び生き始め、息づき始めている気がする。

そしていつも月を見る度に、空を見る度に、くちなしの花を見る度に、風にそよぐ緑を見る度に、朝の光を浴びる度に、幼い子供たちの顔に笑顔が浮かんでいるのを見る度に、そして母と同じくらいの女の人たちを目にする度にそれは母に確かに愛された、揺るぎない記憶となって、いつでもどこでもおれを大きくやさしく包み込み、生きていく力となっておれを強く導いていてくれることを、今おれは知っている。

おれは母を失ったのではなかった。
おれは何一つ母を失ってはいなかったのだ。

おれの中でいつでも母は存在している。
そしておれのまわりの世界にも母はかたちを変えて、いつでもどこでもそこかしこに存在しているのだ。