あの頃辛い手術を終えた母は、熱を出したり、足やお腹や全身に水が溜まったりしてとても動けるような体ではなかった。

だから水を飲ませたり、食べさせたり、着替えさせたり、体を拭いたり、おむつを替えたり、痛いところを擦ったり、痒いところを掻いてあげたり、手や足を揉んだり、そして入浴させたり、母の服や下着を洗濯したりした。
そして話を聞いてあげたり、冗談や楽しい話を一生懸命したりもした。

最近気づいたことがある。
それはじつはそのまま自分が産まれた時から子供時代母にずっとしてもらっていたことだったのだと。

誰かを愛するとはまさしく行動することであり、実践することだったのだ。
母はずっとおれや兄が子供の頃から嫌な顔一つせずに身の回りの世話をしてくれていた。
母はまさしくずっと長い間、おれや兄や父を、家族を愛してくれていたのだ。

おれはずっと自分の過去を振り返ってきた。
そして母が自分にどれだけのことをしてきてくれたのかを少しずつ思い出すことができた。
すると自分がずっと忘れていた、母に自分がいかに無条件に愛されてきたのかということにようやく気がつくことができるようになった。
そしてその揺るぎのない事実は、きっとこれからのおれの生きていく強い力になっていくのだろう。

そして今、おれはおれ自身も過去にたった10か月という母に比べたらあまりにも短い期間だったかもしれないけれど、母に精一杯尽くしてきた事実を思い出した。

それはもしかしたら母の愛情に比べたら、完璧とは言えない、あまりにもお粗末で、雑な行動だったかもしれない。
もう少しやってあげられることもたくさんあったかもしれないし、疲れて内心嫌になったことも正直あった。

でもそんな後悔することも、反省することも、もっとやれることがあったかもしれないと思うことも、疲れていてももっと心を込めてしてあげたほうが良かったと思うこともすべて含めてその頃のおれは精一杯生きていたと思う。

母のことを一途に思い、母を楽にしてあげたいという一心で母の介護を続けた。
それこそ母に与えてもらった、人を愛するというとても貴重な経験だったのかもしれないと今になって思う。

ありのままの自分として母から愛されたという経験はおれにとって生きる上でとてつもなく大きな力を与えてくれることであるとともに、それがどんなかたちであれ人を愛したという経験もおれが生きていく上でまた強い力と自信を与えてくれるのではないだろうか。
そして母はその人生の最後に自分を通しておれに人を愛するというかけがえのない大切な大切な経験をさせてくれたのではないだろうか。

おれは今まで母に何もしてあげられなかったと思っていた。
でも、おれもその時じつは精一杯いろいろなことを母にさせていただいていたことに気づいた。
それは「してあげた」のではなく、まさに「させていただいた」という言葉のほうがぴったりする。

そう、おれはあの時母を精一杯愛したのだ。
おれも過去に人を精一杯、一生懸命愛してきたのだ。

おれは母が生きている間数え切れない愛情という贈り物をずっともらってきた。
そして母からの最後の贈り物は、まさしく人を愛するという経験と、自分も人を愛せるのだという自信そのものだった。

そのことに気づいた時、おれは母からの命をかけた、この上なくあたたかい心のこもった最後の贈り物を自分がずっと受け取っていたことにやっと気づいた。

おふくろ、ありがとう。
あなたはおれにとって本当に最高の母親でした。
あなたが自分の体と命と引き換えにしておれに贈ってくれた最後の贈り物、今しっかりと受け取ったよ。
おふくろ、本当にありがとな。