またこんなこともあった。
その女性は大手の保険会社に勤めていた。
彼女とは昔からの知り合いで、友人として集まりがある時にはお互いに顔を合わせる間柄でもあった。

ある日彼女から電話がかかってきた。
自分の仕事のノルマを達成したいから何か一つ保険に入ってくれと言う。
会って話を聞くと、3か月でいいから何かの保険に入ってくれないかと頼み込まれた。

彼女は母の葬儀に来てくれた人だった。
だから余計に断りにくかった。
それにその頃のおれは人から頼まれるとなかなか断れない人間だった。
なぜかはまだおれにはわからなかった。

その頃のおれの中には決まって、自分の気持ちよりも相手の要求を無意識に優先させてしまう何かがあった。
相手の要求を受け入れることが相手を失望させないことだと思い込んでいた。
自分を犠牲にしてでも。

おれは相手の失望した声を聞きたくなかった。
相手の失望した顔を見たくなかった。
相手を失望させることは罪なことだとさえ感じていた。

またそうしてしまえばその相手との関係は終わってしまう。
とにかくどんな希薄な友情だろうと,孤独な自分にはそれが切れることが耐えられなかった。

今なら思う。
そんなことで終わる関係なら、できるだけ早いうちに終わらせてしまった方がいいと。
でも当時の自分は全く気がついていなかった。

とにかくたったそれだけのことで、自分には全く必要のない保険の契約をしてしまった。

3か月が過ぎた頃、おれは解約したいと電話で彼女に伝えた。
しかしその時彼女は言った。
「今解約されたら私の利益がまだ出ないので、もう少し続けてみて」

それは最初の約束と違うおかしな話だった。
そこには彼女の都合だけしかなかった。
こっちが抗議したっておかしくない状況だ。
それなのにその時の自分は、彼女の説得に難なく屈して抗議することもなく、そのまま保険を続けることになった。
おれは自分に必要もない保険料を、さらに払い続けることになった。

その保険の契約もとうとう10か月になろうとしていたある日、今度こそはっきりと解約しようとおれは決心した。
親切心で払い続けるには、さすがのおれにも限界だった。
しかしお人好しだったおれは、今の保険を解約する代わりに自動車の強制保険だけでも、今までの他の保険屋から彼女に代えてあげようとさえ考えていた。

はっきりと解約したい、と電話をかけた時の彼女の言葉も忘れられない。
「契約して13か月たたないうちに解約されたら、私ペナルティーを会社に払わなければならなくなるじゃないの!」
「それにそんな自動車保険に入ってくれたってまだペナルティーの方が多いんだから!」
そう罵って電話を切ったのだ。

話が違うじゃないか、と思った。
3か月で解約してもいいと言ったじゃないか。
おれはただ友人として助けてやろうと思っただけだ。
困って頼み込んできたから、かわいそうに思って協力してあげた。
むしろ感謝されるべきだろう。
それなのになぜここまで言われなければならないのかと思った。

結局こっちが友人と思っていても、彼女はただ自分が会社から被るペナルティーのことしか頭になかった。
なぜおれがおれの保険を解約する自由さえ彼女は認めないのだろう。
お金を払い続けているのはこっちなのに。

それでもおれが実際に解約したのは、その保険に入って13か月が過ぎるのを待ってあげてからだった。
13か月がやっと過ぎて、直接保険会社に契約書を持って解約に行った時に、受付で言われた。
「あ、その担当の人は去年の12月で会社をやめましたよ」

その12月というのは、おれが解約したい旨の電話を彼女に2度目にした月だった。
その女性は契約しているおれに連絡もしないで、とっくにその会社をやめていたのだ。
おれはそれも知らずにそれから4か月もその保険の支払いを無駄に続けていたということになる。

結局その人間に振り回され、13か月も無駄に払い続けた保険料の総額は10万円以上になった。