その頃のおれには、そういう出来事が他にもいろいろ起きていた。

しかしそれはまだ自分にとっては、遥か昔から繰り返し起きていた多くの似たような出来事の一部にしか過ぎなかった。
枚挙にいとまがないほどだ。

おれを見下し、蔑む人間は、昔からいつでもどこにでも存在していた。
おれはつけ込まれ、軽く扱われ、利用された。
酷いところでいえば、いじめを受けたり、警察に相談するような詐欺の被害にさえ遭ってきた。

その度におれは傷ついてきた。
というより、おれ自身が初めから深く傷ついていたのだ。
だからこそ、そういう人間たちが自分の周りには特別に集まりやすかったのだと、今では思っている。

それはおれ自身が変わらなかったためにずっと解決しないできた、長年の問題だった。
そしてまたそういう出来事が、その頃一気におれの身に起きていたのだった。

その頃のおれは寂しさのかたまりだった。
そして心の中にあったその深い寂しさのために、誰にでもすがりつこうとしていた。
おれは寂しさの正体だった、自分の心の中にあった愛情に対する根強い飢餓感を、誰でもいいから埋めてもらいたかったのだ。
だからその頃友人と思い込んでいた人間たちは、不幸なことに実は大抵がそれにつけ込んでくる利己的でずるくたくましい人間たちばかりだったということにさえ、おれは気づくことができなかった。

またずるい人間は、弱い人間を嗅ぎ分けるのが巧みだった。
彼らに共通していたのは、おれのように他人に嫌われないように自分を犠牲にして相手に迎合していくような人間につけ込み、自分の利益のために都合のいいようにそれを利用するところだった。

あるいは心の中で見下したり、軽く扱うこと自体が彼らの目的であったりもした。
そうすることで、彼らは少しでも人より自分が優位にいる気分を味わえるからだった。
心の中に隠している底知れぬ劣等感を、そうすることで果たしていた。

彼らは一人でいる時には、自分自身の中に力を感じることができない。
絶えず人間関係の中で自分が人より優位であると感じる時にしか、自分の価値を確認することができない人間たちだった。
弱い人間を見下し、弱さにつけ込み、自分に都合よく利用することでしかそれを感じることができなかった。

彼らには、自分のことを抑圧し相手の要求に逆らえないような、弱い人間が必要だった。
要するに彼らも弱い人間と同じように深く傷ついていて、癒されていない人間なのだ。

ただずるい人間が弱い人間と決定的に違うのは、その傷を癒そうとする方法だった。
彼らはNOと言えない、自己主張できないような弱い人間につけ込み、それを徹底的に利用してきた。

誇り高い人間だったら、そんなことするものか。