うちでは同じ家にいながら父と顔を合わせない孤独な生活を過ごし、外では友人と思い込んでいた人間たちに見下され、つけ込まれてきた。

もしその頃、ありのままのおれを受け入れてくれる人間や、対等でお互いを認め合える人達にもっと多く出会っていたら、きっとおれはずっと早く立ち直っていたかもしれない。
きっとその頃も自分の周りをよく見渡してみると、そういうまともな人達もたくさんいたはずだった。

しかしなぜかその頃のおれはいつも、自分を見下しつけ込んでくるような人間ばかりを引きつけてしまっていた。
またそういう人間は向こうからも寄ってきた。

利己的でずるくてたくましい人間と弱くて迎合的な人間は、例えてみるとまさに鍵と鍵穴だった。
それはいつでもどこでもぴたりと合ってしまう関係だった。
片方は他人に優越しようとし、片方は他人に卑屈に迎合していく。
それによってずるい人間が得るものは他人を踏み台にした自分の利益であり、弱い人間が得るものは保護されることによる安心だった。

おれはその頃立て続けにそういう目に遭うまで、この世の中に他人の弱さや寂しさにつけ込んでくる人間がいるのだということを、本当にはわかっていなかった気がする。
昔からずっとそういう目に遭っていながら、他人が見えていなかった。
それは自分という人間が、自分自身には全く見えていなかったからでもあった。
人間は自分を知ることで、初めて他人を知ることができるからだ。

その頃までのおれは、そういう利己的でずるい人間とばかり関わりを持ってしまっていた。
その結果、友人だと思い込んでいた人間たちにことごとく裏切られることになった。
そういう人間は、もともとそういう人間だったのだ。

おれはあまりにも弱かった。
おれは他人に言いたいことも満足に言えなかった。
余程のことでないと抗議一つできない人間だった。
いつも他人にいい顔ばかりしていた。
嫌な顔一つできなかった。
いつも自分を殺し、他人に合わせてばかりいた。
おれはなぜいつもそういう人間たちにつけ込まれ、利用されるだけの寂しくて弱い存在になり下がってしまったのだろうか。

おれの心の奥にはずっと恐怖というものがあった。
自分という存在は結局は世の中に見捨てられるのではないか、という恐怖がいつも付きまとっていた。
そのためなのではないだろうか。

おれの中には、ずっと昔から人間に対する恐怖というものが染み付いていた。
おれは人間がこわかった。
対人関係というものが全くわからなかった。
まだひきこもりという言葉もないような時代に、何年もひきこもりをした。

おれは心の底で深く傷ついていた。
初めから傷ついたままだった。
心の底に恐怖がまるで埋め込まれていたかのように、ずっと存在していた。

そんな深く傷ついていた自分が選び続けてきた他人との関わり方が、迎合することだった。
そして世の中にはそういう、弱く傷ついている人間につけ込む人間もまた同時に存在していた。

それまでのおれの人生の多くは屈辱にまみれていた。
おれは昔から思っていた。
せっかくこの世に生まれてきたのになぜおれはこんなに惨めな思いをしてきたのだろうか、と。

おれはいままで他人に嫌われないように頑張ってきた。
その時その時の感情を抑え、他人に迎合することで相手の好意を得ようとしてきた。
その結果他人に振り回され、つけ込まれ、利用されてきてしまった。

その度におれは自分を責め続けた。
おれは自分の実際の感情を表に出すことができなかった。
他人に真っ正面から自分の意見を主張することもできなかった。

おれには、自分というものがなかった。
他人の好意という幻想にしがみついていただけだった。
そしてその幻想がくずれる度に、今度は自分の中に恨みと憎しみを長い間持ち続けることになった。

自分への誇りを忘れて惨めに生きてしまうと、どこまでいってもきりがなかった。
そしてずっとそういう惨めな人生にしてきたのはあの頃の、他ならぬ自分自身だったのだ。
屈辱を味わう度に、自分を情けなく惨めに感じる度に、おれはよく思ったものだ。
おれは神様の最大の失敗作なのではないだろうか、と。

おれの中に絶えず自分をそうなるように仕向けてきた、もう一つの心の闇があった。
しかしその頃のおれはまだ、自分の中のそれとまともに向き合うことができなかった。