故郷を去る日が来た。

家を明け渡す時間は決まっていた。
時間になる直前まで、おれは残りの荷物をまとめていた。

車に最後の荷物を載せ終わった時、この家の新しい家族が不動産屋と一緒にやってきた。
おれと父は、家のすべての鍵を渡した。

いよいよこの家とのお別れだった。
車に乗り込む前に、おれは家の前に立った。
長い間世話になったこの家に別れを告げるためだった。

この家は父と母が新しい土地を買い、2度目に建てた家だった。
以前住んでいた家は、別の土地にあった。
そこは大通りに面していたため交通量が多く、夜も騒がしかった。
ここに来たのは、もっと静かな所で暮らしたいという理由からだった。

川がすぐ隣にあって、せせらぎの音が聞こえてくる閑静なこの家を一番気に入っていたのは、母だった。
それから20年近く家族で暮らした。
家の中も、周りも語り尽くすこともできないくらいたくさんの思い出が染み付いていた。

見上げると、家はちょうど西に傾きかけた陽の光を一杯に浴びているところだった。

玄関のそばには、いつか母が最後に退院した時、満開の花を咲かせて迎えてくれた山茶花があった。
今は花もなく、ひっそりと無言でおれたちを見送ってくれていた。

1階の軒先に目をやった。
庭に面したそこには昔、竹で作られた細長い椅子が2つ並べて置いてあった。
そこは父と母がよく座って、二人で楽しそうにお茶を飲んでいた場所だった。
でも今は、その椅子もなかった。

庭にあるすべての植木や植物が、残らずおれと父に静かに別れを告げている気がした。

川の向こうにある畑には、きっとこれからも光が降り注ぎ、毎年たくさんの野菜が育つだろう。
でも、もうそれを見ることはない。

おれは車に乗り込んだ。
車の窓から最後に一度だけ振り返った。

2階の自分の部屋だった所の窓ガラスに、西日が当たっていた。
その向こうには、真っ青な空が見えた。
ガラスに反射した光がその一瞬、きらきらとまばゆいばかりに自分の目に飛び込んできた。

この家を見たのは、それが最後だった。

インターチェンジに向かう時、母がずっと好きだった、あの並木道を通った。
棺に入った母が、最後に通った道だ。
おれは母を乗せて何度もこの道を車で走ったことを思い出した。

きっと自分の残りの人生の中で、この道を通ることはもうないだろう。
おれは今目の前の景色を、この道で見えるすべてのものを目に焼き付けようとしていた。

車がインターチェンジに入った。
高速道路を走り出すと、今自分がいたばかりの街が、夕映えにまぶしく輝きながら真下に広がっているのが見えた。

おれたち家族がずっとずっと長い間、生まれ、育ち、暮らしてきた街だった。
そしてもう二度と暮らすことのない街だった。

おれはこの街で生まれ、この街で育った。
この街に帰ってきた時には、自分はきっと死ぬまでここで暮らすことになると思っていた。

おれがかつていた幼稚園も、小学校も、中学校も、高校もみんなこの街の中にあった。

おれはこの街で泣き、笑い、叫び、もがき続けた。
この街には愛も、ほほえみも、やさしさも、喜びもあった。
恨みも、憎しみも、怒りも、悲しみもあった。

この街にはおれのすべてがあった。
おれの限りない思い出が埋まっていた。

でも今、すべてを越えておれの街は、夕映えの中で美しく輝いていた。
そしてきっとこれからは、この街はおれの心の中でいつまでも生き続けていくことだろう。

トンネルに入ると、もう街は見えなくなった。

ハンドルを握りながら、今こうして故郷を離れようとしていることが、おれにはまだ信じられなかった。
東京から帰ってきた頃、まさか自分が再びこの街をあとにすることになるなんて誰が想像できただろう。

人生とは何だろう。
人間とは何だろう。

おれはどこへ行くのだろう。
どこに向かっているのだろう。

おれは何のために生まれ、死んでいくのだろう。

車が進んでいく度に、故郷がどんどん後ろへと遠ざかっていった。
思い出がどんどん後ろへと遠ざかっていった。
おれは自分の今までの人生であった、いろいろなことを思い出していた。

いくつかのトンネルを抜け、車が群馬県との境にある碓井峠を越える時には、辺りはもうすっかり夜の闇に包まれていた。

車を走らせながら、おれも、父も今、人生の中の真っ暗な道をただひたすら疾走している気がした。
どこかにある夜明けをめざして。

埼玉の兄のマンションに着いたのは、真夜中近くだった。
その日は、兄の所に泊まった。

その夜おれは、布団に入っても目が冴えてなかなか眠れなかった。
おれは明日から始まるここでの新しい生活をあれこれ考えていた。
でも、結局何もわからなかった。

おれはもう何も考えないことにした。
ただこの先自分の人生でどんなことが起こっても、きっとあまり驚かない気がした。
一度はもう人生を捨てたようなものだったからだ。

翌日のニュースで、おれと父が家を出た数時間後に、故郷にその冬初めて雪が降ったことを知った。
しかもそれは大雪で、随分積もったということだった。
夜大雪の降り続く道を車で走る苦労は、身にしみていた。
車のタイヤも冬用には換えていなかった。

そのニュースを知った時、おれは母がきっといつもどこかで、ずっとおれたち家族を守ってくれていたのだと思った。

おれにはいつかきっと、故郷を離れたこの夜のことを振り返る日が来るだろう。
その時おれは、もしかしたら生きること、そして輝くことの本当の意味を、答えを知るのかもしれない。

そう思った。